1945年まで登戸研究所と呼ばれる大日本帝国陸軍による秘密兵器の研究所があった。正式名は第9陸軍技術研究所。敗戦が決まると、すべての研究資料が廃棄され関係者が沈黙したため、その実態は長いあいだ謎のままだった。
当時の関係者への取材などを通して登戸研究所の真実を探すドキュメンタリー「陸軍登戸研究所」(楠山忠之監督、8月17日よりユーロスペースほか全国順次公開)について、文芸評論家の川本三郎氏が解説する。
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現在の大学のキャンパスは戦前、軍隊の施設だったところが多い。川崎市多摩区にある明治大学生田キャンパスは陸軍登戸研究所があったところ。といっても広く知られているわけではない。諜報、謀略など秘密戦の研究所で、その存在が秘密にされていたから。近年、ようやくここで何が行なわれていたかが明らかになってきている。
3時間に近いこのドキュメンタリーは、日本映画学校の学生たちが2006年から2012年まで6年の歳月をかけて作り上げた。2012年キネマ旬報文化映画3位に選ばれている。ここでは何が研究されていたか。
その実態には驚かされる。殺人光線、毒物や生物・化学兵器、風船爆弾などの研究開発、さらには贋札の製造まで行なわれていたという。軍用犬の追跡防避剤なるものもある。戦争の歴史は第一次世界大戦で大きく変わった。飛行機、戦車、機関銃、さらに毒ガスが登場し、戦争は大量虐殺の時代になった。日本もその戦争に備えるために研究所が作られた。秘密戦の研究所だったから、秘密が保たれ、憲兵によって厳重に警戒されていた。
このドキュメンタリーの大きな功績は、当時、研究所で働いていた人たちを探し出し、インタビューしていること。
皆さんもう高齢。十代の頃に働いていたという人が多い。風船爆弾作りに関わった女性もいる。研究所の性質から、ここで働いていたことを語るのはつらいものがあっただろうが、皆さん、歴史の証言者として重い口を開いて、戦争を知らない若い人たちに研究所の実態を語り始める。驚くべき証言がある。
研究所内には動物慰霊碑が作られていた。実験動物のためのものだが、実はそれだけではなかったと証言者は語る。
人体実験の犠牲になった中国人やロシア人を慰霊しているのだという。研究者はさすがに良心の苛責を覚え、慰霊碑を作らざるを得なかった。おそらく秘密保持のために表面的には「動物」としたのだろう。近代戦の残酷さを思わざるを得ない。
明治大学生田キャンパスにはこの研究所を負の戦争遺産として残すべく、現在、「明治大学平和教育登戸研究所資料館」が作られ、生物兵器の資料や中国で流通させようとした贋札などが展示されている。また動物慰霊碑はいまもキャンパス内に残されている。
※SAPIO2013年10月号