巨人にドラフト1位で入団しながら、その後変わった形で野球界に携わった選手がいる。1968年に巨人に入団した島野修氏について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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2005年のドラフト1位、巨人・辻内崇伸(大阪桐蔭)が、一度も一軍で登板することのないまま、8年間のプロ人生に幕を閉じた。甲子園で156kmをマークして鳴り物入りで入団。キャンプの初ブルペンでは、当時の原辰徳監督と尾花高夫コーチが見守る“御前登板”で、合格点を与えられたほどの逸材だったが、故障に泣かされた。
この報せを受けて思いだしたのは、「黄金のドラフト」といわれた1968年の巨人のドラ1選手だ。山本浩二(広島)や星野仙一(中日)、田淵幸一(阪神)や山田久志(阪急)といった錚々たるメンバーが連なる中、巨人は、高校生を1位指名した。武相の島野修である。神奈川県代表として2年連続甲子園に出場。県予選ではノーヒットノーラン、18奪三振を記録した右腕だ。
地元球団・大洋の私設応援団長だった池杉昭次郎は、息子が武相に通っていたこともあり、「すごい高校生がウチに来る」と楽しみにしていた。だが結局は巨人が指名。当時巨人は田淵を狙っていたが阪神に奪われ、島野を大洋に持って行かれるならばと指名したのだった。球界では驚きの指名で、巨人入りを希望していた星野が「島と星の間違いじゃないか」と言ったというエピソードは語り草である。
「ドラフト1位ということで周囲からいつも見られているプレッシャーがあった。1年目に1勝を上げると、もっと良くなるとフォーム改造を指示され、それが原因で肩を故障した」(島野)
そのまま鳴かず飛ばずで、24試合で1勝4敗。1976年に阪急に移籍する。阪急では、同期の山田が既に90勝を上げ、大エースに成長していた。阪急でも結果を残せず1978年に引退を決意する。
山田には同期のよしみでよく食事に連れて行ってもらっていた。引退後、芦屋でスナックを開業した時も、仲間は店に来てくれた。だが島野は、今ひとつ肩身が狭かったという。「俺は球場では何も残せていない」という後ろめたさがあった。
そんな時、阪急がマスコット「ブレービー」の役者を募集していることを知った。表に立てずに終わった自分が裏に回ろうと心に決めて、すぐに応募した。私はある時、酔った勢いで、「店も順調なのにどうしてぬいぐるみに入ることにしたのですか」と聞いたことがある。
「同期のドラフト1位はすごい連中ばかり。それができなかった自分はこれで生きるしかないんだ。わからないだろうけどね」
ポツリと答えた島野に、悪いことを聞いたかなと思った。
夏の試合、ぬいぐるみの中は40度を軽く超える。汗と泥にまみれ、一生懸命パフォーマンスをしていたが、西宮球場には閑古鳥が鳴いていた。だがマスコットの人気はあり、夏休みに観戦に来ていた親子連れが、「パパ、明日もブレービーを見に連れて行って」と言ってくれたことが何よりも嬉しかった。
「ファンレターも来ているんだ。人気1位のプレッシャーというのは大変なんだぞ」
酔うとそうして、自嘲気味に話すのが常であった。
阪急が身売りをしてオリックスになり、マスコットが「ネッピー」に変わってからも職を続けた。マスコットが天職と言った島野。イチロー人気で、グリーンスタジアム神戸が満員になったのを見て「少し恩返しできたネ」と言った言葉を思い出す。島野は2010年に脳出血で世を去った。存命だったら、巨人OBの1人として、今、辻内にどんな言葉をかけるだろうか。今年もまたドラフトの日がやってくる。
※週刊ポスト2013年10月25日号