1990年代前半、モノや金への執着を戒めた「清貧の思想」が大ブームとなった。一見すると、年収300万円でそこそこ豊かな生活を目指す「プア充」は「清貧」と似て見えるが、実は大きく異なると1984年生まれの社会学者・開沼博氏は指摘する。
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清貧は豊かな社会と表裏一体の関係にあるものだ。豊かさにあえて抗うことで、自らの理想を追い求め、そこに自由を感じるという生き方である。
一方、プア充は目一杯働いても経済的に豊かになれないという厳しい現実から出発している。その中でプアという「負」を受け入れ切ることで生活を充実させるというものだ。両者の間には大きな違いがある。
もちろん見方を変えれば、日本社会の貧困化が進んだことで、「欲得を離れる」「内面生活を充実させる」「お金がすべてではない」といった清貧の基本理念は、結果として違った形でプア充に引き継がれたと言えなくもない。
私は1984年生まれで、バブル崩壊は小学校低学年の時だった。その後の記憶にあるのは、シャッター街化した商店街、経営破綻したデパートやスーパーといった衰退する一方の故郷の風景だった。「右肩上がりの時代」は遠い過去の歴史に過ぎず、「失われた20年」の時代こそが私たちの世代にとって「生きた記憶」である。
それゆえ、たとえば、将来の収入をあてにして30年ローンを組んでマイホームを買おうと思ったことは一切ない。東京にいる同世代の友人が車を買ったという話も、よほどの車好きを除けば聞かないし、特に海外旅行をしたいとも思わない。私の世代からみると、プア充的な考え方は身近に感じられ、首肯できる部分が少なくないのは確かだ。
清貧の思想は戦後の日本社会に少なからず影響を及ぼしたが、プア充という思想の台頭は日本だけでなく世界的な潮流の中で捉えるべきだ。これを私はポスト先進国問題と呼んでいる。
発展途上国が新興国になって、新興国が先進国を目指す。仕事が賃金の安い新興国に奪われ、先進国では貧困が拡大する。未知の領域に踏み込んだ先進国の苦悩がプア充を生んだが、それが人間を幸福にする知恵であるかは、まだ定かではない。
※SAPIO2013年11月号