中国の毛沢東主席の暗殺を狙った事件としては1971年の林彪事件(党副主席だった林彪が暗殺未遂のあげく逃亡死した事件)が有名だが、1969年にも米軍の情報機関による毛沢東主席の暗殺未遂事件があったことが中国ニュース専門のウェブサイト「前線」の報道によって分かった。
この計画は新中国建国20周年記念日に当たる1969年10月1日の国慶節に実施される予定だったため、「69101計画」と名付けられていた。だが、中国側は3年も前から暗殺計画を察知し、計画が実行される直前の1969年9月下旬、米スパイが捕らえられ処刑されたことで、毛主席が暗殺されることはなかった。
当時は冷戦時代で、米国にとって1964年に核兵器を開発していた中国はソ連と並んで大きな脅威であり、その最高指導者の毛沢東暗殺を狙っていた。
米軍の極東情報局では毛主席ら中国の最高指導部が毎年、国慶節に天安門楼上に上がって、記念式典を行なうことに目をつけ、20周年記念日の1969年10月1日に天安門楼上に時限爆弾を仕掛けて、毛主席らの暗殺を計画したという。
同情報局の最高責任者は1966年6月、暗殺を実行する工作員として、リサ・アートという女性の諜報員を選んだ。リサはただちにフィリピンのマニラに飛んで準備にかかった。
ところが、この情報は同情報局内に潜伏していた中国側スパイから周恩来首相に伝えられ、中国側もスパイをマニラに送りこんだ。それが、東南アジアを担当エリアにしている中国国務院西南局の黄国華だった。黄は西南局第一の美男子といわれており、色仕掛けで女性工作員の計画を阻止しようとの狙いもあった。
黄はマニラで公演予定の中国歌舞団のメンバーに紛れ込み、偶然を装って公演を見に来たリサと接触。たちまち、深い仲になった。しかし、リサは情報局の責任者に黄との関係を報告したところ、ロンドンに拠点を移す命令を受けた。だが、黄を忘れられないリサは部屋の壁の目立たないところに「ロンドン」と書き記していた。
それをみた黄はリサを追ってロンドンに飛ぶ。現地の中国人情報員からリサの潜伏先を知ったが、偶然を装うため、5日間、リサのアジトの周辺をさまよい、ある寺院の前でばったり会う。リサは黄の愛情に感激し、二人は一緒に住むことになるが、ある日、リサは自身が米軍のスパイであることを黄に告白。黄にも米軍の工作員になるように勧める。了承した黄は突然、リサの部屋に現れた米軍の男性工作員数人に拉致されるようにして、米国内の拠点でスパイとしての訓練を受ける。
その後、1969年9月15日、リサと黄は二人で香港から中国に入国し、航空機で北京に向かうが、リサは機内で黄が勧めた水を飲み、昏睡状態に陥る。水の中に強力な睡眠薬が仕込まれていたのだ。リサはそのまま捕らえられて、尋問の末、処刑された。黄は国慶節直前、他の米軍工作員2人を見つけて射殺したことで、米側の毛主席暗殺計画は失敗に終わったという。