今年のプロ野球は、星野仙一監督率いる楽天が日本一に輝いた。星野監督は4度目の挑戦でついに日本一の座を掴んだが、過去3度のリーグ優勝の陰には1人の男の存在があった。「星野の陰に島野あり」とまで言われた男は一体どんな人物なのか、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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楽天の優勝パレードが行なわれた仙台は日本晴れ。車列の先頭に立つ星野仙一監督の誇らしげな顔を見て、今は亡き星野夫人・扶沙子さんの言葉をふと思い出した。
1996年、病に倒れた夫人は、病床で「主人の胴上げ姿をもう一度見たい」と言ったという。しかし星野自身はこの言葉を直接聞いていない。聞いたのは長く星野の参謀を務めた島野育夫だった。何度か通った病室で、「どうかそばにいてあげてください」と言われたのだ。
「星野の陰に島野あり」「星野野球は島野なくして考えられない」と言われるほど、島野は星野の懐刀であった。1986年に中日監督に就任して以来、星野が監督を務める時、そのそばには必ず島野の姿があった。
2001年オフに星野が中日監督を退いた際、島野は中日の二軍監督として残留することが発表されていたが、星野が阪神の監督になることが決まると一転、星野の下へ走っている。
星野の後を受けて中日監督を引き継いだ山田久志は今でも、「あの時、島野さんを引き抜かれたのが一番痛かった」と話す。星野自身も、「島野(自身のドラフトの時に巨人に1位指名された島野修)で失った夢を、島野に助けられた」と語っていたほどだ。
研究熱心な島野は他球団からも評価が高く、1976年には阪神・江夏豊とのトレード要員になった。江夏を出すにあたり、阪神側は南海に対して、エース・江本孟紀に加えて島野を指名。「これが通らないと(トレードは)ご破算にする」と言ったほどである。島野の野球知識がどうしても欲しかったのだ。
2003年、すでに体調を崩していた島野に聞いたことがある。「星野さん以外なら、どの監督の下でヘッドコーチをやりたかったですか」と。すると島野は、「ゴンちゃん(権藤博)と一緒にやってみたかったな」と言ったものの、すぐに「いや、やっぱり(星野とは)離れんやろな」と続けた。
今頃天国で、「最後まで見届けることができず申し訳ありません。でも僕がいなかったから、4度目の挑戦で日本一になれたんでしょう」と扶沙子夫人に謙虚に語っているかもしれない。
※週刊ポスト2013年12月13日号