埼玉愛犬家連続殺人事件──1993年に起きたこの事件は、ブリーダー夫婦がペット詐欺を働き、それが明るみに出る前に次々と愛犬家を殺していたというもので、当時、その残虐な手口が日本中を震撼させた。主犯として逮捕された元夫婦の関根元被告と風間博子被告は2009年に死刑判決が確定し、現在も収監されている。夫婦の間にいた子供は、当時小学2年生。その彼女も、現在28才となった。“死刑囚の子”という十字架を背負って生きたこの20年の過酷な日々と、知られざる母娘の交流、そして断ち切ることができない親と子の絆を、初めて語った。
関根と風間の間に生まれた長女・希美さん(仮名・28才)は、小学校3年生だった逮捕当時のことをこう語る。
「その時は逮捕ということがわからなくて、連れて行かれちゃうとだけ思ったんです。警察官は『お母さんは、すぐ帰ってくるから』と言うし、お母さんも『大丈夫だから』と言うけど、私だけ取り残されてしまうという事実がショックだった」
突如、両親を失った希美さんは、祖母と一緒に、東京の叔母のワンルームマンションで暮らすことになる。
「引っ越すことを学校の友達に伝えようとしても、電話に出た親が『いないわよ』と言ったり、『ちょっとごめんね』って切られたり。友達が電話に出ても、後ろから『切りなさい』という声が聞こえてきたりしました」
明るかった希美さんには友達も多かったが、別れを惜しむことさえできなかった。
「学校の編入では校長室に呼ばれました。担任に『やっていけますか』と聞かれて、それしか答えようがないんで、私は『はい』と言いました。学校が始まってからは、先生が私にだけ、妙に優しかったのを覚えています。その頃、同じクラスの男子のお母さんが旦那さんを殺してしまうという事件が起きて、学校中が騒然としていました。自分のことがバレたら、さらに大変なことになるんだろうなって、不安でしかたがありませんでした」
周囲の大人たちは気遣って、事件のことを希美さんには話さなかった。しかし希美さんは、程なくして事件の詳細を目にすることになる。
「小学校高学年になって、祖母が隠していた週刊誌を見てしまったんです。母が歌を歌いながら、亡くなったかたを切り刻んでいたっていうのを読んでしまって…それを信じてしまい、ああ、何も知りたくない、何もなかったことにしてしまいたい、と祈り続けていました」
その残虐さから大きく報じられていたこの事件。そのなかでも、3年の刑期を終えて出所した共犯者・山崎永幸の告白は、共犯者のものだけあって、迫真性があった。そこには、博子が「鼻歌交じり」に「主婦が刺身でも切っているみたい」に被害者の遺体を「スライス」したとあったのだ。
すべてを忘れたい──そんな希美さんの気持ちとは裏腹に、世間はいつまでも事件のことを忘れなかった。中学に進むと、希美さんは重度の障がい者を介護するボランティアに出かける。
「世間話で『ずっとこっちに住んでるの?』って聞かれて、『いえ、埼玉です』と言うと、次は『どこ?』って聞かれて、『熊谷』って答えると、『熊谷って事件のあったとこだよね』って話になるんです。同じ風間姓だし、私は母に似てるので、もしかして? って話題になりますよね。それで、楽しかったボランティアにも行けなくなってしまいました」
思春期には、さらにつらい思いを味わった。
「高校生の時、おつきあいを始めたかたに、母の話をしたんです。すると、『人間、一度罪を犯したら直らない。悪人は悪人のままだ』って。誰に話しても、私は受け容れてもらえないんだって、両親のことは一生隠して生きていかなきゃって思いましたね」
誰にもわかってもらえない苦しみ。それは自然と両親を責める気持ちを膨らませていった。そこにさまざまなことが積み重なり精神を病んだ希美さんは、すべてを投げ出して死んでしまいたい──そう願うこともあったという。
博子に浦和地裁(現・さいたま地裁)で死刑判決が下ったのが、2001年。関根も同様である。殺人と、死体損壊・遺棄の罪。希美さんが15才の時のことだ。19才、専門学校生だった2005年には、東京高裁で控訴棄却。再び死刑の判決を聞かされる。その度に、事件のこと、逮捕の時のことなどを思い出し、希美さんは涙が止まらなかった。
それまで事件のこと、両親のことを封印しよう、忘れようと思っていた希美さんの心に変化が訪れる。成人となった希美さんに言った、叔母のひと言がきっかけだった。
「何があっても、お父さんがいたからこそ、あなたがいるんだよ」
その言葉が、希美さんの心を開いたのだ。
「産んでくれてありがとう、っていうお礼の手紙を書いたんです。すると、会いにきてほしい、って父は書いてきた。でも、逞しかったあの父が、変わり果てていたらどうしようって心配で、結局、行けませんでした」
希美さんは今に至るまで、父とは一切会っていない。
「数年後に母に面会に行った時に、父にお金を差し入れたんです。でも後日、東京拘置所の差し入れ係から電話があって、受け取り拒否ということでした。私が会いに行かなかったから、怒っていたのかもしれません。それからは交流はないです。父からの手紙には、『お母さんを帰してあげる』って言葉もあった。今となっては、意味は定かではないんですけど、父には事件の真相を、ちゃんと話してほしい。被害者のためにも、そうしてほしいと思います」
※女性セブン2014年2月20日号