人との「つながり」に飢えているのは、携帯電話やインターネットに精通する若者たちだけではない。定年退職を迎えたシニア世代こそ、地域デビューや趣味サークルなどに「つながり」を求め、もがいているように見える。だが、つながることは、果たして人間にとって必要なものなのか。「つながらない」評論家・呉智英氏が、世に広がる「絆」至上主義に一石を投ず。
* * *
三年前の東日本大震災によって、日本の精神風土は、じわりと変化した。あれだけの大惨禍に遇って、逆に日本人は自信を深めた。大震災の直後、絶望的な状況にもかかわらず、略奪騒ぎも暴動も起きず、日本全体が復興を支援した。むろん、大破した原発処理を含め、今も未解決の課題はあるし、個別の不祥事はいくらでも指摘できるだろう。しかし、総じて文明の成熟度が明らかになった。これは日本が世界に誇るべきことである。
このことは、震災後十日の二〇一一年四月一日号の本誌で、私も既に一文を草している。だが、翌々週の本誌では、苦言のコメントを出さないではいられなかった。ちょうど花見のシーズンだったが、これを自粛しようとする奇妙な同調圧力が日本中に広がっていたからである。
「つながろう、日本」の目に見えぬ強制であった。確かに、被災者たちは復興へ力強く歩み始め、ボランティアたちも尽力している。しかし「よい人、よい事」の前に、何も言えなくなるのも不健全ではないか。人間の営みは、もっと複雑で多様であり、その上に文明の成熟は築かれるのである。
私が当時、そして今、ますます気になるのは、「絆」の横行である。なぜ誰もこれを批判しないのだろう。「絆」ってそもそも「よい事」なんだろうか。本来これは「動物をつなぎ止める綱」のことである。語原は「首綱」が考えられている。当然、意味は「束縛」「執着」「しがらみ」である。
昨今ではあまり読まれなくなったイギリスの小説家にサマセット・モームがいる。代表作は『人間の絆』だ。この書名は、人と人が手を取り合い、連帯してゆこう、という意味では全くない。家族との軋轢、愛人との感情のもつれ、その中でもがく作者自身の半自伝的小説である。つまり「人間社会の束縛」という意味なのだ。
原題を見れば分かる。“Of Human Bondage”である。ofがついているのは「人間の束縛から離れて」の意味だろう。作者も本作を書くことによって、長年の心理的葛藤から解放されたとしている。思ひ出ポロポロならぬ、思ひ出ドロドロが人間の絆なのだ。
絆とは束縛であり、しがらみである。それを承知の上で、社会には束縛も必要であり、人間にはしがらみもある、という意味で「絆」が叫ばれているのだろうか。どうもそうは思えない。そもそも言葉の意味さえ分かっていない浅薄で平板なスローガンが横行しているのだ。
※週刊ポスト2014年5月23日号