毎年8月2~3日の2日間開催される「新潟・長岡まつり大花火大会」。写真で紹介するのは、白一色の尺玉花火「白菊」。花火師の嘉瀬誠次氏(92)がシベリアで命を落とした戦友の鎮魂を祈って作り上げた。現在は戦没者への慰霊として長岡空襲のあった8月1日と同花火大会の最初に打ち上げられている。
同花火大会では、復興祈願花火「フェニックス」(超特大ワイドスターマイン花火)など、2万発の花火が打ち上げられ、100万人が酔いしれる。この150年以上の歴史を持つ祭典を支えた「伝説の花火師」を、新刊『白菊-shiragiku-伝説の花火師・嘉瀬誠次が捧げた鎮魂の花』(小学館)を上梓した、山崎まゆみ氏が紹介する。
* * *
色鮮やかな光が幾重にも重なり、夜空が黄金色に染まる。目を開けていられないほどの眩さと凄まじい轟音。市民の寄付で打ち上げられる3分間の夜の夢「フェニックス」である。
美しいはずの光景なのに、涙があふれる。「フェニックス」が初めて夜空に上がったのは9年前。新潟県中越地震の復興を祈願した「祈りの花火」として今も大会の大きな目玉になっている。
江戸時代に始まる長岡の花火大会は戦後、戦災殉難者の慰霊と鎮魂を込めた祭典となる。その礎を築いたのが嘉瀬誠次。昭和26年、戦後初の正三尺玉を打ち上げた「伝説の花火師」である。
14歳から父のもとで修業を始めた嘉瀬だったが、戦争で状況は一変した。終戦後3年間、シベリアで強制労働の辛酸を舐めることになる。だが、花火に対する熱意は消えず、復員後、「長生橋のナイアガラ」など長岡の名物花火を次々と生み出す一方、ロス五輪の閉会式の打ち上げ花火を手掛けるなど名声は世界に轟く。
「フェニックス」打ち上げにも計画当初から加わった嘉瀬だが、現在は観客として自らが彩ってきた美しい花火大会を見守り続ける。
「私にできることは安全に立派な花火が打ち上がることを願うだけです」
そう目を細める嘉瀬の瞳に、今年も不死鳥が羽ばたく。
撮影■飯田裕子
※週刊ポスト2014年8月8日号