9月15日は「敬老の日」であり「老人の日」でもある。コラムニスト・オバタカズユキ氏が老いの先にある「発見」について考える。
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今年の9月15日は「老人の日」であり、かつ、「敬老の日」である。以前はそんなにややこしくなかったのだが、祝日法改正でハッピーマンデー制度を導入した結果、「敬老の日」は2003年から9月の第3月曜日となった。ただ、それに反発する声も多く、9月15日は老人福祉法で「老人の日」とあらたに定められた(2001年から)。今年はその両方がたまたま重なった。
「敬老の日」の趣旨は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことだ。「老人の日」のほうは、「国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促す」ことを目的としている。
ややひねた見方をすれば、旧来の祝日をひきついだ「敬老の日」には、「長生き万歳!」ザッツオールといったおめでたい感じがある。対して新しい「老人の日」からは、老人を社会福祉の問題として考えようと呼びかけ、そして、老人自身にも自助努力を求めるという姿勢に、超高齢化社会の重苦しさを感じる。両者を比べたら、リアルなのは圧倒的に「老人の日」のほうだ。
実際、すでに人口の4分の1は65歳以上の高齢者で、そのうち半分は75歳以上の後期高齢者である。言うまでもなく、これらの比率は今後もあがり続け、介護制度も年金制度も崩壊寸前。認知症患者の徘徊問題、老老介護問題、孤独死問題などなど、頭の痛い問題が山積みになっている。
「敬老」の意義は分かっても、ぶっちゃけ「長生き万歳!」と素朴に言えない。長寿の価値は、もうだいぶ前から下落傾向にある。長生きが幸せにつながらない世の中は悲しいけれども現実だ。
というふうなことを考えつつ、先日発売されたばかりの『話が長くなるお年寄りには理由がある』(増井幸恵著・PHP新書)を読んだ。すると、これが超高齢化社会に対してネガティブな見方ばかりをしてしてしまう自分にとって、新しい視点を与えてくれる本だった。ざっと紹介しておこう。
著者は高齢者心理学が専門で、東京都老人総合研究所の研究員として活動中。これまで高齢者、特に「超高齢者」のインタビューをたくさん積み重ねてきており、その経験からたとえばこんな話をする。
<九十歳、百歳の高齢の方は、「明日目が覚めないかもしれない」「明日はもう死んでいるかもしれない」ということを自然におっしゃいます。
私だったら、そんなことを本気で考え始めたら、ものすごく怖くなります。でも、超高齢の方は、怖さというものを感じているようには見えません。死に対する覚悟という雰囲気もありません。それならば、死の恐怖を乗り越えたのかというと、そういう感じもありません。ただあるがままに受け入れている様子です。>
ある種の悟りのような心境だろうか。いや、ニュアンスとしてはそれとも違っていて、もっとチャーミングな感じの超高齢者が多いようだ。
<九十歳くらいの高齢の方と話していていつも驚くのは、ちょっとしたことに対しても楽しみを感じている方が多いということです。
食事に関して「ごはんがおいしい」「何を食べてもおいしい」とおっしゃる方はたくさんいます。
その他にも、「テレビを見ているのが本当に楽しい」、「お酒を飲んでいるのが楽しい」、「寝るのが大好きだ」、「お友達が来て話をするのが楽しみ」など何でも楽しみと感じるようです。>
著者によれば、70歳ぐらいでは昔できたことができなくなったせいで、自信を失い、うつ的になる場合もあるという。だが、その段階を超えて、90歳以上になると、何か1つでも自分ができることを見つけ、「まだ、これができる」と喜べる境地になるらしい。