エッセイストで俳優・奥田瑛二(64才)の妻である安藤和津さん(66)の父は、内閣総理大臣・犬養毅の息子で法務大臣も務めたことのある犬養健氏(享年64)。母は料亭「をぎ乃」の経営者・荻野昌子さん。父は母よりも27才年上で妻子がいた。安藤さんが中学1年生の時、父が心臓病で他界したが、葬儀で安藤さんと母は親族席に座れなかった。だが、母は「ふん、それが何だっていうのよ」と言ったという。そんな母とのエピソードを安藤さんが語った。
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「パパからもらった宝物」
父の死後、私は母にそう呼ばれるようになりました。どこに行くにもお手伝いさんがつきっきりで、初めて自分でお金を払い買い物をしたのは中学3年生の時。大学を卒業後、イギリス留学をした後も、「就職なんかしちゃ、いい奥さんになれない!」と、働くことさえ許してくれませんでした。大事にされていたのでしょうけど、まるで母の所有物であるかのようでした。
私が20才を迎える頃には料亭をたたみ、花嫁修業のために母親業に力を入れはじめました。それまでできなかった母親業に力を入れ、娘に花嫁修業を仕込もうと思ったのでしょう。母がお膳立てしてくれた縁談に「私、結婚してもこの人のパンツや靴下を洗えない」と言って断ったこともありました。
母の存在は鬱陶しいものでしたが、母と離れることなど考えも及びませんでした。
奥田と結婚したのは1979年1月。友人のパーティーで知り合った彼は、当時、芽が出ない俳優で、母が理想とする条件の人とは真逆でしたが、「あんたたち、結婚したら」と言葉にしたのは母の方でした。
ある日、わが家で奥田が倒れて1か月間ほど面倒をみてあげたときに、私が彼の寝汗をかいた寝巻を洗濯機に入れたり、世話を焼く姿を母が見て、このふたりならうまくいくと思ったようです。結婚相手としての条件は最悪でしたが、何より奥田は自分の言うことを聞いてくれるお婿さんになると母は思ったのでしょう。でも、その勘は大ハズレでしたね。
結婚して母と同じマンション内のワンルームを借りて新居を構えたのですが、「朝ご飯できてるからいらっしゃい」とか、多いときは日に20回以上も電話がかかってくる。母は私たちの家に入り浸っていました。
子供が生まれると、母は娘たちもコントロールするようになってしまったんです。
「1人で電車に乗っちゃ危ない」とか、子供に十円玉を持たせて、「学校が終わったら、必ず電話をしなさい」とか…。
母の愛の“濃さ”はひしひしと伝わってきました。親鳥が雛を捨て身で守るように、奥田を含め24時間、母の神経が私たちに向いているのがよくわかる。母の根底にあるのは、私たちに対する深い愛情だとわかってしまうから、余計につらかったですね。
そして次第に母は家族だけでなく、他人や物にまで当たるようになりました。ピアノの先生に未払いの月謝を催促され、先生の顔に向かって札束を投げつけたり、電話の子機やテレビのリモコンの操作がうまくいかないと、床に叩きつけて壊してしまったり…。
明るくて涙もろくて、本当は気が弱いところがあって、愛情深く捨て身で私たちのためにやってくれたのは、わかっているんです。でも、あまりに嫌な部分が日々積み重なると、母に対する過去のいい思い出も全部消えてしまうんですね。
「あんたのせいで家族の関係にもひびが入りそうだ」
「あんたは悪魔だ! クソババア死ね!!」
私はトイレの中で、何百回となくそうつぶやいた。母との日々の暮らしが耐えられない。姑なら親しい友達に悪口も言えますが、私の親ですから、誰にも心の丈を打ち明けられない。実の母をこんなに憎んで、いったい何の因果かと思いました。でも、「もう一緒に暮らせない。お義母さんから離れよう」という奥田の言葉に私はためらいました。
《ママを残してこの家を出たら、さぞや寂しい思いをさせるだろうな》
なぜ、親を捨てられなかったのだろうか、女同士、母ひとり子ひとりで育って、今にして思うと、私はどこかで、母という存在に、強く依存していたのかもしれません。
※女性セブン2015年1月22日号