1995年、1月17日午前5時46分、阪神・淡路を襲った大地震から20年が経った。復興を経て、取り戻されたもの、新しく生まれたもの、そして失われたままのものがある。ジャーナリスト・外岡秀俊氏がリポートする。
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震災当夜に見たのは、戦後日本の「繁栄」が崩壊する現場だった。恐竜のような体を横倒しにした高速道路。膝を屈するように前に傾くビル群。見えない巨大な拳によって、一瞬のうちに粉みじんにされた住宅街。車のライトに浮かぶ光景は、一筋の光明もない闇に沈む文明の廃墟のように思えた。
死者6434人、重傷者約1万人。全壊10万戸、半壊14万戸。ピーク時避難者31万人。戦後初の都市直下型震災について、いくら数字を連ねても衝撃は伝わらない。それは、戦災から50年、不死鳥のようによみがえった戦後日本の一部が、再び灰燼(かいじん)に帰した姿だった。
その日から1年間神戸に通い、路地を歩き回った。復旧は遅々としていたが、今にして思えば、この国はまだしも若く余力があった。
震災発生から7か月後には神戸市が避難所を閉鎖。その後も5年目を前に仮設住宅がなくなり、6年目には10市10町、8年目には被害が最も甚大だった神戸市で人口が被災前を上回った。
いま神戸周辺を歩けば、その復興の目覚ましさに、誰もが驚きの声をあげるだろう。だが被災前の町を知る人々に見えるのは、失われた風景だ。あちこちに、ぽっかり残る空き地や駐車場。立ち去ったまま帰らなかったお年寄りたち。活気のあった下町の立ち飲み酒場や町工場。そうして失われたものは町の外の者の目には映らない。震災の爪痕は「空白」として存在している。
だが、残ったものもある。
今年1月5日、バウさんが逝った。名は山田和尚。阪神大震災の直後に神戸入りし、灘区石屋川公園を拠点に数百人の若者ボランティア「神戸元気村」を率いた。
中心は、全国から馳せ参じたカヌーイスト。アウトドアが日常の若者たちは一夜にしてテント村をつくり、水源を見つけ、1日7000食の炊き出しを始めた。
ちなみに「バウ」はカヌーの船首。その訃報を伝えてくれたのは当時バウさんの右腕で、カヌーの船尾を指す「スターン」と呼ばれた草島進一さん(現・山形県議)だった。会社を辞め、バウさんとともに神戸に3年間滞在してボランティアを続けた彼はいった。「これまでの人生で、目の前の人がこんなに喜んでくれることがあっただろうか」と。
「ボランティア元年」と呼ばれた震災から20年。少子高齢化が進むこの国で、これからの頼りは民力による支え合いだ。大勢の若者が、バウさんの後ろ姿を追って歩いている。
※週刊ポスト2015年1月30日号