人気パーソナリティーだった逸見政孝氏。突然のがん告白と、享年48というあまりにも早い急逝。残された妻・晴恵さん(享年61)は12億円とも言われた新居の総工費の借金を返す目的もあり、エッセイストとして原稿を書き、年間100本以上の講演をこなす忙しい日々を送っていた。息子の逸見太郎(42才)が、そんな母との最期の別れの時を語る。
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父が逝った翌年、母ががんを患った(編集部注・初期の子宮頸がんに加え、血液細胞のがんのひとつである骨髄異形成症候群という難病も発症していた)と知ったのは、ぼくがアメリカの大学を卒業し帰国してからでした。高校から留学させてもらい家を空けていたし、母を大事にしたい思いもあって、一緒にいる時間を作るように心がけました。
10月21日です。生放送の収録に向かう途中、病院から自宅にかかってきた電話はあまりにも突然でした。
「すぐ、来てください」
「すぐは無理です。どうしたんですか」
「お母さまが危ないんです」
「えっ、危ないって?」
それは危篤を告げるもので、あわただしく応急処置をしている様子が、電話から伝わってきました。
でもぼくは生放送が控えていた。とにかくスタジオに向かわなければならない。自宅を出ると東急大井町線に乗り、二子玉川駅で乗り換えの電車を待っているときでした。母親に付き添っていた妹の泣き崩れる声が、携帯電話から伝わってきて。
「放送が終わったら連絡する」
ぼくは妹にそう伝え、携帯電話を切りました。暗くなってはいけない。不幸があったことを周りに気づかれないようにしなければと、自分に言い聞かせて、その日の本番をこなしました。本番終了後の連絡で、すでに病院を出て自宅に向かっていると告げられ、母の亡骸とは家で対面しました。
悔しそうな死に顔だった。借金返済のめども立って、これからは悠々自適に人生を楽しむ夢を持っていました。病気だって治ると思っていたに違いありません。
「家からおくりたい」
逸見政孝ではないのだから、マスコミにも知らせずに、ごく内輪で式を執り行いたい。今どき珍しい、家でのお葬式でしたが、ぼくの思いをみんなが酌んでくれました。近所には親戚もいましたし、ぼくの所属する事務所の社長も親身になってくれて、地元の葬儀屋さんへの連絡や、家から歩いて10分ほどの菩提寺への導師の手配等、お葬式の準備を手際よく整えてくれました。
1階の8畳の和室に祭壇を設けて、スライド式のドアを外し、弔問客は中庭を通り、外から焼香ができるようにしました。
黒い服が好きな母でしたから、旅立ちの衣装は黒を基調にしたコムデギャルソンを着せて、いつも髪を切ってもらっていた美容師さんに死に化粧を施してもらいました。祭壇は母好みの花を飾ろうと、華やかな赤いカサブランカにしました。
100人ほどの弔問のお客さんは、近所に住む母の幼馴染や、学生時代の友人がほとんどでした。父のときとはまた違う温かさがありましたね。
出棺の時は母らしいおくり方をしたい。焼香をしている時に、ふと母の好きな音楽をかけようと思ったんです。
「ドリス・デイの『ケセラセラ』を借りてきてくれないか」
弔問に来た友人に頼みました。『ケセラセラ』は母が大好きだった曲だったんです。翌日、告別式の読経と焼香とぼくの弔辞が済み、出棺のとき、カセットレコーダーのスイッチをONにしました。『ケセラセラ』の軽快でどこか物悲しい曲が、母の棺の乗せた車を包んでいきました。
「ケセラセラ」=「なるようになるさ」
母はこの言葉が好きでした。彼女の人生はなるようになったのだろうけど、もうちょっとこの世の中で夫婦ふたり、ゆっくりしてほしかった。
聞き手・文/根岸康雄
※女性セブン2015年1月29日号