一度しかない親の葬儀に著名人たちはどう向き合ってきたか。初めて明かされる親と子の秘話に、大きな感動が広がっている。今回はNHK連続テレビ小説『マッサン』で、主人公夫妻を人情深く支えるニシン漁師の網元・森野熊虎役を演じる風間杜夫さん。女手ひとつ家族を支えた母との思い出を語る。
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おふくろの死は突然だった。84才だったが、保険の外交員の仕事をしていたし、90才までは生きると思っていた。
危篤の知らせを飲み屋で聞いて、病院に駆けつけたが、もうおふくろの意識はなかった。医者は必死に蘇生措置をとってくれていたが、しばらくして「ご臨終です」と告げられた。きれいな顔をしていた。無念だったとは思うが、おふくろらしい死に際だった。
ぼくはおふくろが好きだった。
そんなおふくろへの弔辞を綴ったのは、いつも落語をやるときに噺のツボをメモしているノートの裏だった。
2003年7月、おふくろはベッドから落ちて足の付け根を骨折してしまう。人の世話になるのが嫌いなおふくろは、歩けなくなることを恐れて手術をした。手術は成功したのだが、もともと心臓が弱かったおふくろの容体は術後すぐに急変した。
ぼくは居酒屋でおふくろの危篤の連絡を受け、病院に駆けつけた。きれいな死に顔だった。無念さはあったろうが、長患いをするでもなく、誰にも迷惑をかけずに逝ってしまった。享年84、おふくろらしい死に際だった。
「もう仕事はやめたらいいじゃないか」
「いいじゃないか、これが好きなんだから」
おふくろは笑顔で答えていた。子供の世話にはなりたくなかったのだろう。遺品を整理すると顧客名簿が山ほど出てきた。「住田さんが来てくれるから、保険を継続するわ」というお客さんを、たくさん持っていたのだ。
おふくろの貯金通帳を開くと、まとまった額の数字が並んでいた。ぼくはそれなりの仕送りを毎月欠かさなかったが、おふくろはそのお金には一切手をつけなかったのだ。おふくろの遺志を汲み取り、その貯金を姉貴とぼく、その子供たちで均等に分けた。
もうひとつ立派だなと思ったのは、おふくろが生前、遺影と墓を用意していたことだ。
若い頃の写真でピントは甘いが、はつらつとした感じで微笑んでいるおふくろがいた。墓は父の死後、浅草の菩提寺の古びた墓を何とかしたかったおふくろが、木造モルタルのアパートから近代的なマンションに移るように、同じ墓地に半畳ほどの空いたスペースを購入し建てたものだ。
そんなおふくろの祭壇は、勤めていた保険会社の社長をはじめ仕事の関係者からの供花で埋まった。それは84才で亡くなるまで、おふくろが現役だったことを物語っていた。
実はおふくろが亡くなってから葬式までの数日、ぼくは落語会を控えていた。落語を語る心境ではなかったが、おふくろなら絶対にやれ、と言ったはずだ。
ぼくは高座にあがって、お客さんに噺を披露して笑ってもらった。そして、そのときの噺のツボを書いた落語のノートの裏に、おふくろへの弔辞を書き記した。
おふくろはぼくの役者としての生き方を応援してくれました。おふくろに褒められたくて、ぼくはやってきた気がします…と。
どんなに人がうらやむ人生でも、人間は死んでいくとき、無念さが残るとぼくは思う。もういなくなってしまったけど、ぼくはいまだに舞台に出るとき、劇場の暗い袖で親父とおふくろのことを思う。
今日も客席に来てくれているよな、今から行くから応援してくれ。そして、心の中でつぶやく。見届けてくれよな。
親父、おふくろ、つかこうへいさんをはじめ、先に逝ってしまったかけがえのない人たちの無念さを引き受け、ぼくは今も舞台に立つ。横浜にぎわい座を中心に定期的に高座にあがっている。
※女性セブン2015年2月5日号