勢力範囲を拡張せんとし、周辺各国と紛争を繰り返している中国。なぜ、彼らは横暴を続けるのか。中国が潜在的に自国領土と考えている範囲を見ると、彼らの行動原理が見えてくる。ジャーナリスト・惠谷治氏が指摘する。
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古代中国の皇帝(天子)は周辺諸国の異民族支配者に対し、王号や官位を与え、その国の統治を認める代わりに、定期朝貢や臣礼遵守を義務づけた。
この関係は冊封体制と呼ばれ、BC3世紀の秦代に成立し、19世紀の清朝末期まで続く東アジアの国際秩序となった。冊封関係において漢字が使用され、漢字を媒介として、儒教、律令制度、仏教が東アジアの共通文化となった。
日本も6世紀までは冊封体制のなかにいたが、聖徳太子は隋との対等外交を目指し、607年に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を送り、冊封体制に入らないことを宣言した。しかし、両国の友好関係は維持され、遣隋使や遣唐使の派遣が続き、中国からも使節団が来日していた。
冊封体制は、欧米列強によるアヘン戦争やアロー戦争などの侵略によって、19世紀末に崩壊した。
しかし、冊封体制を支えた中華思想は消滅することなく、1920年に成立した中華民国(国民党政府)の国家イデオロギーとなった。大東亜戦争、国共内戦を経た後、国民党は中国共産党に敗れ、台湾に脱出した。
1951年、国民党政府は『反共抗俄掛図』を作製した(俄はロシアの意味)。その地図には、清朝最大版図を連想させるような赤い境界線が引かれており、近隣のかつての冊封国を自国領と考える中華思想が明示されていた。
1949年に誕生した中華人民共和国政府も、1953年に発行した教科書『現代中国簡史』において、中国の潜在的領土を示す境界線を引いた地図を紹介した。この境界線は国民党が描いた地図の境界線よりも拡大され、ビルマ、タイ、マレーシアなど東南アジア全域が含まれている。
中国では共産党も国民党も、琉球(沖縄)は”大中華帝国”の一部と考えているものの、早々と冊封体制から離脱した日本は含まないという点で一致している。
赤いライン内には、清朝時代に帝政ロシアに奪われたトゥヴァ(唐努烏梁海)、モンゴル、沿海州などが含まれており、スペインのレコンキスタ(再征服運動)やイタリアのイレデンティスモ(回収運動)を彷佛とさせる。
※SAPIO2015年3月号