昭和30年代から40年代にかけて人気を集めた任侠映画が、結果として暴力団のプロパガンダになっていた。そのため、警察は昭和48年に公開されヒットした高倉健主演の『山口組三代目』の次回作を作らせぬよう、プロデューサーだった田岡一雄組長の実子、田岡満氏(故人)を22件もの容疑で逮捕して露骨な妨害工作をしてきた。その逮捕の1年後、なお意気軒高だった山口組の様子をフリーライターの鈴木智彦氏がリポートする。
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昭和49年、山口組は当時発行していた組員向けの会報誌『山口組時報』で田岡満氏の結婚式を取り上げ、7Pにわたって大特集した。その様子は、世間に認知されているのは我々であるという自信に充ち満ちている。
列席した700名のメンツには、いまでは到底考えられない名前が並んでいる。
政財界では自民党代議士の石井一や中山正暉、東急社長の五島昇、三菱倉庫社長の松村正直、元神戸市長の中井一夫ら蒼々たるメンバーが披露宴に参加した。芸能界からは『山口組三代目』で主役を張った高倉健を筆頭に鶴田浩二、勝新太郎、中村玉緖、寺島純子(富司純子)、梅宮辰夫、伴淳三郎、清川虹子、大村崑、西郷輝彦、五木ひろしなどの名前が見える。祝電披露の筆頭は、岸信介元総理大臣である。
会場にはNHKのテレビクルーをはじめ、50人ほどのマスコミ関係者も入場を許されており、大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)の4階会議室では、仲人の田中清玄の仕切りによって記者会見も行なわれた。新聞、テレビ、雑誌を問わず、今のように暴力団と芸能界の関係を黒い交際と糾弾する者は皆無だった。
「女性記者から代表質問、コチコチである。この種の質問はもっとリラックスしてもよいのだが……。新郎新婦と田中氏夫妻、それに司会の長沢純さん(コーラスグループのスリー・ファンキーズ解散後、数多くのテレビ番組で司会者となった)、組関係は幹部の小田(秀)だけ。それにもかかわらず記者諸君は口が重く、長沢さんのユーモラスな司会もあまり通じないかのようであった」(『山口組時報』第10号。昭和49年8月5日発行より抜粋)
日頃の鬱憤を晴らすかのようにマスコミをコケにし、山口組はさぞ得意気だったに違いない。以降もヤクザ映画はヤクザと二人三脚で作られるが、従来の任侠路線は既に飽きられており、徐々に衰退していった。
※SAPIO2015年3月号