明治10年(1877)年2月に西南戦争が勃発すると、従軍取材を行った明治初期のジャーナリストたちにより日本の戦争報道が始まった。このときの時に虚実をない交ぜにした大活劇報道によって、新聞の戦意高揚報道が始まったと言われる。
元毎日新聞論説委員で城西国際大学大学院客員教授の鈴木健二氏は、「西南戦争の教訓は2つある」と語る。
「一つは、政府と軍部の融通がなければ戦争取材ができないという形を作ったこと。融通された記者は当然、見返りとして政府軍寄りの記事を書きます。実際、東京日日新聞の福地(桜痴)は木戸孝允のコネを利用して軍内部に入り込み、西郷軍を『賊軍』と決めつけて、他紙に先駆けて政府軍の優勢をスクープし続けました。
もう一つは、血沸き肉躍るような戦争記事が新聞の売り上げを如実に伸ばすことです。“戦争で太る”ことを知った新聞は西南戦争以降、民衆の戦意を煽る姿勢を強めます」
1894年の日清戦争で各新聞は、「進軍喇叭(らっぱ)の武勇兵」などの忠勇美談で戦意を高揚させた。1904年の日露戦争では、むしろ多くの新聞が率先して開戦を煽り、なかでも朝日新聞は桂太郎首相を挑発する強硬論で部数を伸ばした。当初は開戦に反対していた「万朝報」や毎日新聞も売り上げの下落から、やがて開戦論に転じた。
続く第一次大戦、日中戦争、太平洋戦争においても、ある局面を迎えると新聞が政府と軍部の「広報機関」に成り下がり、御用報道を続けたことはよく知られている。鈴木氏は、そもそも日本の新聞の成り立ちが原因だと指摘する。
「西欧社会で新聞は権力の不当な干渉や徹底した弾圧と文字通り命を懸けて戦い、長い時間をかけて言論の自由を勝ち取りました。
一方、日本では近代化を急ぐ明治政府が新聞を『人智発明、開化要用』の道具として、国民国家を形成する手段として用いた。藩に属していた人々を日本の『国民』とするため、ナショナリズムの育成に新聞が利用されたのです。その点が西欧と決定的に異なる。政府の庇護下で育った日本の新聞にとって、権力から独立した言論の自由は建前にすぎず、体を張って死守すべき権利ではない。
このため、戦時下では利益を優先して簡単に政府や軍部と一体化し、新聞自ら進軍ラッパを吹き続けたのです」
第二次大戦終結から70年が経過し、戦争は遠くなったが、権力と新聞の関係は今も基本的に変わらない。政府機関や自治体、警察などでは記者クラブに囲われて、相も変わらぬ「発表ジャーナリズム」を続けている。
そんな新聞の危険性について、鈴木氏が警告する。
「新聞ほど戦争に弱いものはありません。過去の新聞報道から明らかなように、いざ戦争が近づけば、新聞は政府に脅され、または懐柔され、あげく統制されて進軍ラッパを吹き鳴らします。その危険は今もなお続いているのです」
※SAPIO2015年4月号