「夫婦別姓」は、働く女性にとっては便利な点もある。何しろ、これまでと同様の名前で仕事ができる利点は多い。比較文学者の小谷野敦氏が、「夫婦別姓を訴える女」について言及した。
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野田聖子が夫婦別姓法を主張していたのは、自分が野田の姓を残したかったからだというのは、もう分かりきったことだ。つまり夫婦別姓を主張する者の中には、進歩的どころか保守、家名を残したいという思惑の者が少なからずいるはずだが、このことは奇妙なほどに議論されない。
もし子供が生まれないのであれば、夫婦別姓など何の問題もない。別姓法案では、子供の姓は最初に決めておくとなっていたりするが、その取り決めはどの程度の拘束力を持つのか。決めたことは後で変えられる。夫婦別姓になどしたら、いざ子供ができた時に、自分の姓にしたいという妻が裁判所に訴えを起こすだろう。
夫婦別姓などというのは先進国では日本だけだ、などと言っている人は、その夫婦別姓の先進国で、子供の姓がどうなっているのかよく調べたほうがいい。だいたいヒラリー・クリントンは夫の姓を名のっているではないか。間に「ローダム」と旧姓が入っていても、子供の姓はクリントンである。駐日米国大使キャロライン・ケネディは旧姓だが、子供の姓は夫のシュロスバーグである。
「横山安田」などという複合姓を、進歩的なつもりで使っている人がいるが、その子供が結婚する時にはどうなるのか。姓は複合されて倍々で長くなっていく。まるで落語だ。高市早苗は、戸籍では夫婦同姓、通称として旧姓使用の立場だが、自分は夫と自分の二つの墓にお参りしているなどと書いて馬脚を現した。では子供の代では四つ、孫の代では八つの墓に参るのか。
もちろん、これに反論することはできるだろう。私は家名の存続など考えていないし、子供の姓は夫のものでいい、という女性もいるだろう。それにしては、野田聖子が五十歳で子供を産んだあとあたりから、とんと議論がなくなってしまった。往年の、宮崎哲弥・八木秀次編の『夫婦別姓大論破!』なども、絶版になり、最近では読まれていないだろう。
では夫婦別姓派は負けを認めたのかというと、そうでもなく、ちょいちょい出現して、「夫婦同姓なんて日本だけ」とか、まるでピンポンダッシュのように言うだけ言って逃げたりする。だいたい、西洋諸国には戸籍制度がないから、重婚だって可能なわけだが、戸籍制度は日本の陋習だから廃止せよ、という声もあがらない。
結局、二十年くすぶったあげく、夫婦別姓論など下火になってしまったということかもしれないが、それこそ「議論を尽くせ」などと言うのが好きな政治家たちが、表面的にはちっとも議論を尽くさないまま、なし崩しになっているのは、日本の言論の不健康さを表していると言うほかない。
※SAPIO2015年4月号