親日を超えた「愛日家」を自任する男性が、戦前に日本の領有下にあった台湾にいる。日本の短歌を愛好する団体「台湾歌壇」の代表を務める蔡焜燦(さい・こんさん)氏だ。今年4月に、14年前に小学館文庫から発刊された著書『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』が日本の読者の反響を呼び、単行本の「新装版」として発刊されることになった。そんな蔡氏が “元日本人”としての誇りを語る。
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大東亜戦争を「悪」だと教えられてきた戦後の日本人は驚くかもしれないが、当時の台湾にとって日本は「最良の統治者」だった。
確かに内地(日本本土)から台湾に来た日本人の中には、我々を「チャンコロ」と呼んでバカにする者もいたのは事実だ。
しかし、台湾を「化外の地」と呼んで放置してきた清国とは違い、大日本帝国は台湾に乃木希典、後藤新平、明石元二郎など、日本国首相になってもおかしくない一流の政治家や軍人、行政官を派遣し、台湾の近代化を推進した。台北市の下水道整備は東京よりも早かったほどである。私が通った公学校(小学校)の各教室にはスピーカーがついており、放送学習が行なわれていた。これも本土の学校にはなかったと聞いている。
そうした物質的なもの以上に我々台湾人が日本を尊敬した理由は、「日本精神」に裏打ちされた道徳教育にある。「日本精神」とは、台湾では勤勉、正直、約束を守る、公を大事にするといった善行を意味する言葉として現在も使われている。
日本人の教師たちは教育を「商売」と考えている中国人とは違い、「日本の将来を支える人材を育てる」という使命感と情熱があった。恩師たちの多くはすでに他界してしまったが、そのご家族との交流を続けている我々世代の台湾人は多い。植民地を搾取の場としか考えなかった欧米列強と日本の決定的な違いを示すエピソードだと思う。
◆蔡焜燦:1927年、台湾生まれ。台中州立彰化商業学校卒業。1945年、岐阜陸軍整備学校奈良教育隊入校。終戦後、台湾で体育教師となるが、後に実業界に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長などを務める。司馬遼太郎が『台湾紀行』の取材をする際に案内役を務め、同作中に「老台北」として登場したことでも知られる。短歌を愛好する「台湾歌壇」の代表として日本文化を広く紹介してきた功績が評価され、2014年春の叙勲で旭日双光章を受章。
●構成/井上和彦(ジャーナリスト)
※週刊ポスト2015年5月8・15日号