【書評】『終戦詔書と日本政治 義命と時運の相克』老川祥一著/中央公論新社/2800円+税
【評者】山内昌之(明治大学特任教授)
終戦詔書の作成過程を分析しながら、政治指導者の責任と「無責任」とは何か、を考えた書物である。終戦70年を迎える今年、敗戦時の指導者の無責任ぶりを声高に批判する現代の政治指導者のなかに、その責任を官僚などに転嫁して平然としている首相もいたことは記憶に生々しい。
困るのは、自分の判断ミスや不的確な行動で重大結果を招きながら、それを他人のせいにした首相だけでなかった。自分の判断にミスがあったという自覚も、それが重大結果を招いたという認識もない首相が現れるなど、いまの日本政治がますます低レベルに変容していることを著者は危惧する。そこから本書も生まれたのである。
著者が渾身の気迫で明らかにした終戦詔書の作成修正の過程は、戦後政治に理想がなく、筋道もなく行き当たりばったりになる原因と、陽明学者安岡正篤が呼んだ事情と関連している。
終戦詔書を推敲した安岡は、「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」という個所と「義命ノ存スル所」という表現を断然残すべきだと主張したのに、後者は難解という理由から「時運ノ赴ク所」と訂正されてしまった。「時運云々」は風の吹き回しということだ。
日本の天皇が風の吹き回しで降伏したということはあってはならない。義命とは道義の至上命令、良心の厳粛な要請という意味であり、仮に戦えば戦えるという場合でも、道義や良心の命令とあれば敢然としてそれを捨てるのが義命だというのだ。
ところが閣僚たちは、こんな言葉は聞いたことがなく、判らないから修正せよという声が上がった。辞書を見ると出ていない言葉だから、一般国民は分からないのではないかということで変えられたらしい。
かなり安直なのだ。安岡は、時の運びでそうなったので仕方なく、理想も筋道もなく目前の損得という意味になったと嘆く。新日本建設の基礎となるべき詔書ひいては終戦が意義を失ったというのだ。カラーの詔書草稿を60ページも載せるなど貴重な史料とその解説としても有益な本である。
※週刊ポスト2015年6月19日号