中国共産党の歴代指導者たちは常に失脚は暗殺に怯え、同誌や部下の粛清を繰り返してきた。その権力闘争の歴史のなかで空前絶後の「極悪人」は毛沢東だと指摘するのは評論家の宮崎正弘氏。そんな同氏が、1958年から行われた急進的な社会主義建設の試み「大躍進政策」の失敗により悲劇に見舞われた劉少奇の死に関する、現在の中国共産党の嘘について語る。
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大躍進政策の大失策が明らかになると毛沢東は国家主席の座をナンバー2の劉少奇に譲る。
ところが市場主義を導入して経済を立て直そうとした劉少奇や鄧小平ら改革派の権力が強まると、毛沢東は彼らに「走資派(中共内で資本主義の復活を目指す実権派)」のレッテルを貼り、反革命勢力打倒を掲げて「文化大革命」を発動する。毛沢東の腹心の林彪が国防部長として軍を掌握、毛の妻の江青ら悪名高き「四人組」(江青、王洪文、張春橋、姚文元)が恐怖政治を敢行した。
毛沢東思想を狂信する少年少女は「紅衛兵」と称し、「造反有理(造反にこそ正しい理がある)」をスローガンに各地で反革命分子の吊し上げを行った。北京郊外の大興県では、乳幼児から老人まで325人を虐殺。文化大革命中、推定、数百万~1000万人以上の死者・行方不明者が生じた。
狙われた劉少奇は1968年10月の党大会で「裏切り者」、「国民党反動派の手先」と糾弾され、党を除名される。自宅には紅衛兵が乗り込み、罵倒とリンチを延々と繰り返した。1969年10月に肺炎で非業の死を遂げたが、死亡時の体重は20kgに満たず、紅衛兵に殴り殺されたとの説もある。自らの地位を脅かす政敵を徹底して叩き潰すのも独裁者・毛沢東の流儀だった。
ところが現在、中共は劉少奇が死去した河南省開封に「逝去跡記念館」を建て、劉少奇の危篤時に医師団が駆け付けて酸素ボンベで救命を図ったというお涙頂戴の物語を流布する。嘘に塗れた「正史」である。
※SAPIO2015年7月号