ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、50年前の2年にわたるアメリカ遠征で“メインイベンター”アントニオ猪木が生まれたプロセスを追った。
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テキサス時代の猪木のリングネームは、本名のカンジ・イノキで、リングに登場するときのコスチュームは着物スタイルのガウンに下駄ばき。リングシューズは履かず、ショートタイツに素足で試合をしていた。
日系レスラーの定番ファッションだった、両ヒザに丸いパッチがついた“田吾作タイツ”を着用しなかったのは、猪木がいわゆるヒール=悪役ではなく、ケオムカ(※日系レスラーの大ベテラン、デューク・ケムオカ。本名ヒサオ・マーティン・タナカ)の弟子として──ケオムカはテキサスではベビーフェース=正統派で、テキサス以外の土地ではヒール──ベビーフェースの中堅どころの“番付”を与えられていたからだろう。
キャリアと格の違いのせいなのか、“師匠”ケオムカとタッグを組む機会はあまりなく、カンジ・イノキは、もっぱらシングルプレーヤーとして活動した。
それが当時のアメリカの言語感覚といってしまえばそれまでのことなのかもしれないが、現地の会場売り用パンフレットに掲載された猪木の顔写真のすぐ下には“ジャップ・ジャイアント”なる差別的なキャプションが印刷されていた。
主な対戦相手は、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス、マーク・ルーイン、ジン・キニスキーといったヒールの超一流どころばかり。
キャリア5年、22歳の猪木が、メインイベンターとしての自我に目覚めたのは、どうやらこの時代だった。テキサス・ツアーを終えた猪木は、昭和40年11月、最後の修行地となるテネシーに移動した。
テネシーは2年前、先輩の芳の里が長期ツアーしたテリトリーで、南部気質の保守的な土地柄のため、ジャパニーズ・レスラーは自動的にヒールと位置づけられた。ツアー・コースはメンフィス、ナッシュビル、キングスポート、チャタヌガなどテネシー州一帯。
同年12月、アメリカ在住の日本人レスラー、ヒロ・マツダが、ケオムカのブッキングでテネシーに転戦してきて猪木と合流。2人はタッグチームとして翌年、昭和41年2月まで同地をツアーし、寝食を共にした。
■斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ-とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年7月17・24日号