松坂大輔を輩出した野球の名門・横浜高で1年生からエースに君臨し、3年時の1980年夏には早実の荒木大輔に投げ勝って優勝した投手が愛甲猛だ。甲子園の優勝投手となれば当時も今もアイドル扱いだが、愛甲氏は見事に青春を謳歌していたようだ。優勝の栄冠を掴んだ高校3年生の夏を、愛甲氏が振り返る。
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最後の夏の大会前はまさに野球漬けだった。朝練後、ユニフォームの上に学生服を羽織ってホームルームに出席、1時間目が始まる前に球場に向かった。日暮れまで練習して夕食後はマシンで打撃練習。終わるのは22時過ぎだ。悪さをするヒマもなかった。
県大会では7試合中6試合完封して甲子園を決めた。当初の部員の目標は、国体出場条件のベスト8だったが、監督が知事への挨拶で「優勝旗を持って帰ります」と宣言してしまい、これが新聞に大きく出たことで優勝を目指すしかなくなった。
最後の夏ももちろん宿舎からは外出禁止。2回戦以降は親とも面会禁止になった。外に出られないので部屋のトイレが唯一の息抜きの場になった。そのまま決勝まで進み、最後の相手は早実の荒木大輔。1年坊主には負けられない。大輔の連続無失点記録を阻止し、試合も6対4で逃げ切った。甲子園優勝を決め、これでまた人生が変わっていくのがわかった。
新横浜に帰ってくると駅前を人が埋め尽くしていた。嬉しいというより怖くなった。家の前には朝から女の子が大勢待っていて、弁当をくれる子もいた。見知らぬ親戚や知人も増えた。
一番変わったのが先生の態度だ。授業中に校内放送で副校長室に呼ばれると、「お客さんにサインをして欲しい」という。体育教官室には300枚の色紙が置いてあり、「愛甲君、お菓子を食べながら書いてよ」ともいわれた。
サインといえば普通では考えられない場所でも書いた。知り合いの会社社長にいわれてついていったら、堀之内のソープランドだった。ソープ嬢からは「昨日のパレードに行ったよ」といわれ、待合室ではソープ嬢たちに囲まれて即席のサイン会が開かれた。
こんな経験ができたのも、甲子園で優勝したからだと思う。甲子園はやはり特別な存在だ。この時期になると、プロのロッカーでは甲子園に出場していないヤツはバカにされていたし、「甲子園に出たかった」と口を揃える。野球人にとって甲子園は、今も昔も別格だ。
■愛甲猛(あいこう・たけし)/1962年、神奈川県生まれ。横浜高では1年からエースとして活躍、3年時に全国優勝を果たす。プロ入り後は野手に転向。ロッテ、中日で勝負強い打撃を武器に活躍した。現在はインターネット動画サイト「ニコニコ生放送」でトーク番組を放送中。
※週刊ポスト2015年8月14日号