史上初めて、選考委員全員が1作品を大賞に選出──。7月末の炎暑のさなかに行なわれた第22回小学館ノンフィクション大賞の最終選考会は、他の追随を許さない取材力と文章力を兼ね備えた評伝に、高い評価が集まった。今秋以降に単行本化される予定の大賞受賞作、ジャーナリスト・森健氏の『小倉昌男 祈りと経営』の内容を紹介する。
2005年6月、ヤマト運輸(現ヤマトホールディングス)の元社長、小倉昌男は米国で80歳の生涯を閉じた。日本全国に宅配の物流インフラを敷いた「宅急便」の生みの親で、事業の過程では運輸省や郵政省の不条理な規制と闘争もした名経営者である。そして、引退後は私財46億円を投じて「ヤマト福祉財団」を創設、障害者福祉に捧げた。清廉な戦略家にして優しい紳士。そんな小倉を慕う声はいまも少なくない。
だが、小倉には謎があった。なぜ障害者福祉に私財を投じたのか、その理由を語っていなかったのだ。宅急便の開発過程は自著で丁寧に明かしているが、後年の障害者福祉については、私財すべてを投じたにもかかわらず、「なんとなく」「お気の毒だと思って」という曖昧な言葉しか述べていなかった。
じつは経営者時代、小倉は福祉に関わったことも寄付をしたことも公になっていなかった。ところが、取材を始めてみると、1991年に突然小倉は北海道や静岡で数千万円から1億円という高額の寄付をしていた。訪れてみると、どちらも妻・玲子に縁のある場所だったが、その妻は同年春に亡くなっていた。
さらに取材を進めると、小倉夫妻には長年深い悩みがあることがわかった。数十年にわたって家族を巡る問題で深い葛藤を抱えていたというのである。幼い時からの足取りを追っていくと、小倉はつねに家族の問題に悩まされていたこともわかってきた。そうした思いがあったことで、晩年の福祉への目覚めにつながっているようだった。
稀代の経営者が後年、財産と人生を投じた福祉事業。その取り組みの背景には、誰にも明かさなかった家族への思い、父としての静かな思いが潜んでいた。小倉は多くの現代の家族が向き合う課題に、いち早く寡黙に取り組んでいた。
小倉が遺した約四百の俳句とともに、その半生を追った。
※週刊ポスト2015年9月4日号