昭和22年11月6日、冷たい風が吹き始めた多摩川河川敷に黒山の人だかりがあった。結婚情報誌『希望』が主催する「青空集団お見合い」に全国から詰めかけた20~50歳の男女である。「参加者386人」と資料は伝えるが、風俗史研究家で作家の下川耿史氏はこう指摘する。
「実際にお見合いに参加できた人が386人だったというだけで、そこに集まった男女は数万人はいたはずです」
この盛況ぶりを反映してか、翌年の5月には鎌倉の鶴岡八幡宮で、8月には函館の五稜郭公園で同様のイベントが開催されたほか、全国100か所で行われたという。自治体が主催するお見合いも多かった。その後、昭和24年をピークとする第一次ベビーブームが到来したことが、イベントの成果を物語っている。
集団お見合いに参加したのは、戦争で夫を亡くした寡婦や、無事戦地から帰ってきたものの婚期を逃した男たち。終戦直後の経済的な困窮の中にあっても結婚願望は旺盛だった。その動機は、男女ともに「生活の安定」はもちろんだったが、この時代特有の空気があった。下川氏が続ける。
「好きな相手と結婚できる、もっと言えば好きな相手とセックスできるということは、それまでの日本人の多くが経験していないことだった。恋愛結婚などほとんどなく、最初から結婚が決まっていた見合いも多かった。この“青空集団見合い”は、日本人が初めて自由恋愛をしたというエポックメイキングな出来事。それまでのように国から『産めよ殖やせよ』と言われたから結婚するのではなく、自分の意思で生き始めたのです」
今では当たり前のことだが、当時の人には結婚相手を「自分で決める」ことができる高揚感は格別のものがあったに違いない。
終戦直後の焼け野原の中でも、衰えることのなかった日本人の旺盛な「結婚願望」。青空集団お見合いは戦後復興に向けて大事な一場面となった。
※SAPIO2015年10月号