ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、昭和47年7月、馬場が新団体設立へ動いた新しい門出の季節についてお届けする。
* * *
ジャイアント馬場が日本プロレス協会を退団、独立を表明したのは昭和47年7月29日のことだった。この日、馬場は役員を務める日本プロレス興業と日本プロレス選手会に辞表を提出し、同日午後6時から東京・赤坂プリンスホテルで記者会見を開いた。
『第1次サマー・ビッグ・シリーズ』を開催中の日本プロレスは、この日は移動日のためオフで、馬場の突然の行動に、芳の里代表をはじめとする首脳陣は「まったく寝耳に水」と驚いた。記者会見の席上、馬場が読み上げた“所信表明”は以下のような内容だった。
「日本プロレス界は、その創世期より創始者・力道山の熱意、日本テレビの正力松太郎氏の英断と三菱電機の関、大久保両社長のご支援により普及・発展し、今日の隆盛をみるに至った」
「馬場正平自身としても、力道山亡きあと、日本テレビの電波によって全国のプロレスファンのみなさまのご声援を得て、今日の人気と地位を獲得できた」
「私、馬場正平は、日本テレビのブラウン管に出るべく、日本プロレスを離れるに至った次第であります」
わかりやすくいえば、馬場は同年4月、なし崩し的に決定したNET(現在のテレビ朝日)のプロレス中継への“出演”をよしとせず、日本テレビとの関係を継続するべく、日本プロレス協会からの独立を決意したということである。
どうしてここまで、スムーズに馬場が退団──独立計画を実行に移せたのかというと、にわかには信じ難い話ではあるが、実は日本プロレス協会とその所属選手との間には、法的な拘束権を有する契約書というものが存在しなかったからだ。
これもまた、力道山が相撲社会から持ち込んだ悪しき慣習といってしまえばそれまでなのかもしれないが、相撲出身の芳の里代表をトップとする日本プロレスは、“協会”と呼ぶには何もかも前近代的な“どんぶり勘定”の組織だった。
※週刊ポスト2015年11月27日・12月4日号