【書評】『マスコミ漂流記』野坂昭如著/幻戯書房/2800円+税
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
「野坂昭如」は人名というより、一つの記号に似ていた。黒いサングラス、独特の早口、歌手デビュー、テレビの常連、キックボクシング、CMモデル、中年御三家リサイタル、参議院選東京地方区立候補、衆議院選新潟三区田中角栄対抗馬立候補……。
昭和三十年代末から、およそ二十年のことである。発想がユニークで、表現は変幻自在、挑発し、笑わせ、ケムにまき、たのしませ、報告し、シャレのめした。どれといわず多少とも的外れのようでいて、実のところは、きわめて的確にやってのけた。
『マスコミ漂流記』は、そんな人物の胎動期の記録である。二十七歳で三木鶏郎の音楽事務所にもぐりこみ、やっと定職を得て以後の十二年間、直木賞作家となって一段と飛躍するまでがつづられている。雑誌連載のまま、これまで一度も本になっていなかった。
語られたところはテレビ草創期をめぐり、またとない資料となるものだが、それ以上に語り方がおもしろい。今日のことはボロ屑のように捨てていく。昨日はとっくに忘れたし、明日もまた用なしだ。軽はずみに未来を夢見て、今日の切れ味を鈍らせてはならない。
「永六輔は、キノトール氏を抜いて、飯沢匡氏の域にせまると、仲間うちで評価され、前田武彦は、ヴァラエティショウの構成者、野末陳平は、味の素家庭劇場という、五郎劇の翻案ものを手がけていた。青島、大橋はまだパッとせず、文壇では、小生と同年の開高健、また大江健三郎が登場し、石原慎太郎以後、登場する文学的才能は……」
有名と無名をとわず、数かぎりない人物が現われては退いていく。メディアのまわりに数かぎりなくいたからだ。そのなかの「漂流」は、時代がまさにこの人物のために必要としたもの、そして必要に応じて野坂昭如的スタイルを生み出した。これ以上ないほどあざやかに「現代」がここには要約してある。それをあまさずみずからが演じ、かつまた色濃く予言性をおびて書きとめるなど、ひとり野坂昭如にだけできる離れワザだった。
※週刊ポスト2015年12月11日号