「討死」や「謀殺」、「自決」によって英雄の最期はドラマチックに語り継がれるが、「病」に苦しみ、「病」と闘い、「病」に斃れた歴史上の人物の悩みはあまり知られていない。聖徳太子(574~622年。享年48)の死因は何だったのか?
622年、聖徳太子の住む斑鳩の里では痘瘡(天然痘)が大流行した。感染は御殿にも及び、太子の母が死亡。その1か月後には太子と妃がウイルスに侵され病没している。太子の直接的な死因は脱水症状による心不全だった。太子と妃の死が1日しか違わないことから蘇我氏による暗殺説も根強い。
※病名などについては『戦国武将の死亡診断書』(酒井シヅ監修/エクスナレッジ刊)などを参考に記したが、病名や死因については諸説ある。生年・没年については『コンサイス日本人名事典』(第4版/三省堂)などを参考にした。享年は満年齢を基本としたが、出生・死亡日が不祥のものは数え年で表記したケースもある。
■監修/酒井シヅ(順天堂大学名誉教授)
※SAPIO2016年6月号