その絶大な権力から「影の総理」とも呼ばれる菅義偉・官房長官。これまでその政治キャリアについて、菅氏が自ら語ることはなかった。その知られざる実像に迫った話題作『総理の影 菅義偉の正体』のなかで、ノンフィクション作家・森功氏からのロングインタビューに応えた菅氏は、彼の政治家との原点ともいえる出来事について語った。1998年の自民党総裁選で、所属していた経世会の小渕恵三氏ではなく、いまも政治の師と仰ぐ梶山静六氏を支持し、同派閥を抜け出したのだ。
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――なぜ梶山氏だったのか。
「当時日本はまさに金融危機のど真ん中で、梶山さんは駄目な銀行をつぶすハードランディング論者でした。そんなことをしたら大恐慌になるとか、いろんな議論があったんですけど、銀行にはやはり大きな問題がありましたから、私も梶山理論に賛同していました。
で、それを実行し世直しのために総裁選挙に出るべきだと、まだ当選一回でしたけど、小此木の八ちゃん(小此木八郎・衆院議員)といっしょに梶山さんを説得しました。結果的に敗れましたが、多分、2日ぐらい前に決断すれば、梶山総理大臣が誕生していたかもしれないといまでも思っています」
─―なぜか。
「実は初めは小渕さんが総裁選に出るという話はなかったんです。いったん梶山さんが出ないって言ったから、小渕さんが出るとなった。私の当選1期の仲間は45人おりました。そのうち経世会(平成研)は全盛期だったので、30人くらいいました。梶山さんがもっと早く決断すれば、小渕さんは出られなかったのではないかと思っています
――そのせいで野中広務氏には随分にらまれたというが。
「自民党は加藤(紘一)さんが幹事長でしたが、実力者は野中先生でした。梶山さんが総裁選出馬を表明したとき、小渕派全体の選対会議で野中さんが『菅だけは許せない』と私の名前を出したらしいです。
それを私の友だちが電話で伝えてきました。『菅ちゃん、すげえな、野中さんが……』と報告を頂きました。私自身は実はそんなに気にしてるわけではなく、私が梶山票の多数派工作をやってたから、野中さんはそう言って牽制していたんです。
ただ、あの選挙をやって、私はすごく勉強になりましたし、永田町という政治の世界が見えてきました。いかに信念のない政治家が多いことか。勝ち馬に乗ろうとする。真剣勝負で戦ったのでいろんな風景が見えました」
※森功・著/『総理の影 菅義偉の正体』より