角界の野球賭博問題がクローズアップされているが、「この先どんな不良分子の名がクローズアップされようと、第32代横綱、玉錦三右衛門の悪名あるかぎり、とくに驚くにはあたらない」と語るのはジャーナリストの中尾孝司氏だ。(SAPIO2010年9月号より)
気象の荒さ、ケンカっ早さと派手な博打でも知られた「ケンカ玉」こと、玉錦の後援会長は、誰あろう二代目山口組、山口登組長その人であった。
それだけではない。その山口組トップが、玉錦を「舎弟」としてかわいがっていたという事実まで、三代目田岡一雄組長みずからが自伝に書き遺している(『山口組三代目田岡一雄自伝 電撃篇』徳間文庫)。
同自伝には玉錦とのイザコザが端緒となった「宝川関襲撃事件」の顛末も、当事者の弁として堂々、語られている。
昭和7年(1932)3月27日、二所ノ関一門を背負う大関玉錦(当時)と同じ高知出身で、3歳年上だった前頭三枚目、宝川関(友綱部屋)が、祝儀の『入り』をめぐって仲の良い玉錦と口論。売り言葉に買い言葉で、こう啖呵をきった。
「山口(組)でも何でも呼んでこい。宝川は逃げも隠れもせん。山口に宝川がそういってるといえ!」
この話は即、神戸の山口組本家に伝わり、後の三代目、田岡氏を含む3人が大阪の宿舎「菊水館」へ駆けつけた。
田岡氏の手には刃渡り一尺八寸の日本刀が握られていた。宿舎2階奥の部屋で、大酒を飲み高いびきで寝入っていた宝川関は、すぐに叩き起こされるが、素直に謝ろうとしない。田岡氏は無言のまま、
<両手でドスを頭上に振りかぶり、真っ向微塵と宝川の脳天めがけ唐竹割りに打ちおろしていた。間一髪、玉錦が横合いから咄嗟にわたしの手首につかみかかり、「こ、殺さんでもええやないか」うわずった狼狽の声をあげていた>
<宝川は反射的に右手を顔の前でかざすようにしてドスを避けようとしていた。わたしの火のような憎悪の一撃は、その右手の小指と薬指の半分を斬り落とし、さらにざっくりと宝川の額を割っていたのである>
事件後、宝川関は指2本を失って土俵を去り、一方の玉錦は半年後の10月に横綱に昇進したという。ことほど左様に、昔から「タニマチ」と呼ばれた力士の贔屓筋には、コワモテの面々が控えていたわけである。だからこそ、荒くれ者揃いの関取衆も素行を慎んだのだ。
※SAPIO2010年9月8日号