1974年にフィリピンのルバング島での密林生活を終え、帰国した小野田寛郎元少尉。同氏は30年あまりにわたって、終戦を知らずにジャングルでサバイバル生活をしていた。その時の知恵は、子供時代の工作体験にあったという。ジャーナリスト・山根一眞氏との対談で、小野田氏の少年時代の様子が明らかになった。(週刊ポスト1997年3月21日号より)
小野田 11才上の兄の学友が東京帝国(現・東大)の工科をトップで卒業して三菱重工へ入っていて、よく工学の話をしていたんです。例えば、エンジンの話をしていて、レシプロ・エンジンはピストンが上にあがった階段で慣性がゼロになる。燃焼室で爆発させて下に下りるとそこでまたゼロ。これではエネルギーの無駄なので電動モーターのようにピストンを回転させるのが最も効率がいいのではないか、と。
山根 それ、ロータリー・エンジンの原理じゃないですか。そんなことお兄さんがいっていた……。
小野田 いや、私が。
山根 小野田さんが! それ、何才の時の話?
小野田 中学校1年生。叔父が陸軍の技術本部にいて野砲から戦車砲、飛行機用の機銃まで大砲の研究ばかりしていたんです。そのおじさんに大砲の話や弾道の話なんかを聞くのが好きでね。
ルバング島で30年も戦えたのは、こうして子供時代に得た知識のおかげだと、小野田氏本人も認めている。
山根 理科の点数は?
小野田 勉強はしないがよかった。でも目に見えない代数はだめ。ABCやらαβってどこに形があるんだと。でも幾何は形があるからいい。社会も同じで歴史の暗記はつまらないが地理は実体があるから大好きだった。
山根 代数や歴史が好きだったらルバング島で30年も生き延びられなかった?
小野田 そうです。
小野田氏は、生きるために必要な学問を子供の頃から身につけていたのだ。