【書評】財務官僚の出世と人事(岸 宣仁著/文春新書/798円)
「挫折を知らないエリート」たちの出世レースの果てを思いつつ、ジャーナリストの岩瀬達哉氏が書評する。
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かつてこの『週刊ポスト』誌で、大蔵官僚の接待疑惑を追及したことがある。時代は、バブルが弾けたばかりのころだった。
おかげで、といってもいいのだろう、著者の膨大なメモに描かれた、財務(大蔵)官僚の生態に、うなずくことも多かった。当時、驕りの絶頂にあった大蔵官僚の姿を追いながら、彼らと激しい議論を重ねるうちに、「ひとりひとりの生身の人間」としての弱さや、真摯な素顔に気づくことがあった。
「なぜか実体以上に巨大なモンスターのように見られている」と語るのは、「花の四十一年組」のトップに上り詰めた、武藤敏郎元事務次官である。成績優秀、かつ個性派がそろいながら、武藤と同期だった中島義雄氏(退官時は主計局次長)、そして長野?士氏(証券局長)は、日本経済のバブル崩壊と、それに重なるように噴出した大蔵省の過剰接待疑惑によって、次官レースから消えていった。
いまなお霞が関の「行動原理」は不透明だ、とわたしは思う。そしてそれをさらに視えにくくしているのが、エリートに抱く、モンスターへの幻想でもある。
まぎれもなく、彼らは「幼少期から神童と騒がれ、挫折を知らないエリート」である。と同時に、「入省年次」によって築かれる「横糸の同期の結束と、縦糸の上下関係が微妙に綾なす強大なピラミッド構造」の官僚機構のなかで、出世と人事に苦悩する、ひとりの弱い人間でもある。それは、民間企業も同じかもしれない。
しかし、国家を動かす集団である以上、霞が関の出世レースには「一人の事務次官を生み出すための間引きの論理」がある。著者はそれを「官僚組織の知恵」とよぶが、その延長線上には、天下りがある。つまり、途中で間引きされたエリートたちの生活保障だ。使命感よりも、この論理とシステムにあぐらをかき続けてきた結果、日本は迷走してしまった。
グローバル化する世界のなかで、「何も変えないための言い訳ばかりに終始してこなかっただろうか」と自問する言葉は、とても重い。
※週刊ポスト2010年10月22日号