相馬勝氏は1956年、青森県生まれ。東京外国語大学中国語学科卒業。産経新聞外信部で次長、香港支局長を歴任。米ジョージワシントン大学東アジア研究所でフルブライト研究員、米ハーバード大学でニーマン特別ジャーナリズム研究員を経て、フリージャーナリストになった。「茅沢勤(かやさわ・いずる)」のペンネームで『習近平の正体』の著書がある相馬氏は、習近平・国家副主席の対日人脈についてこう述べている。
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「習時代」を見るうえで、気になるのが対日人脈だ。前章で述べた3大派閥で色分けするなら、現在の胡錦濤政権を支える共青団閥は、どちらかといえば現実路線で対日政策も穏健だ。一方、上海閥は共産思想の原理主義で、特に江氏は激しい対日批判で名を馳せた。太子党と習氏がどちらの路線を取るかは、まだ未知数だ。
習氏の名前を日本人に知らしめたのは昨年12月の天皇陛下との「特例会見」だった。外国の要人が天皇陛下と会見するには、1か月前に文書で申請する「1か月ルール」がある。しかし、習氏の訪日予定が正式に外務省に伝えられた時点で、すでに1か月を切っていた。宮内庁はルールを盾に会見を断わった。中国外務省の最高幹部は慌てた。次期最高指導者が天皇陛下と会えないとなれば、責任が問われるのは必定だ。
実は、天皇陛下との会見を最も強く望んでいたのが習氏自身だった。同じく国家副主席で次期最高指導者に内定していた胡主席が1998年、来日して天皇陛下と会見していたからだ。この前例を自分も踏襲するため、習氏は中国外務省幹部に、「会見を絶対実現させろ」と厳命したという。
外務省高官はあらゆる対日人脈を使って特例会見を実現させようと工作する。当時の山岡賢次・民主党国対委員長、平野博文・官房長官、岡田克也・外相、さらに中曽根康弘・元首相らだが、いずれも会見を実現させることはできなかった。中国側が「最後の切り札」として泣きついたのが小沢一郎・民主党幹事長だった。小沢氏は12月初旬に国会議員143人を含む483人という大訪中団を率いて北京入りする日程が決まっており、小沢氏側にも訪中団を成功させるために、習氏ら中国指導部に恩を売っておいて損はないという計算があっただろう。
ともかく小沢氏が動いたことで「絶望的な局面が一転して実現の可能性が出てきた」(日中関係筋)。その結果、特例会見は実現することになる。それ以来、習氏と小沢氏の関係は密接になった。直接会談は行なっていないが、習氏は小沢氏の側近らと懇談するなど、親交を深めている。
※週刊ポスト2010年11月12日号