吉原は公許の遊郭として、浅草の観音様の裏手、当時の千束村(現台東区千束3丁目と4丁目あたり)に展開していた。総面積2万767坪の広大な敷地を黒板塀が囲む。さらに、その外周をお歯黒どぶと呼ばれる堀がめぐらせてあった。
吉原に入るには、隅田川の洪水を防ぐために築かれた日本堤を通らねばならない。吉原の出入り口は大門のみで、門を入ってすぐ左手の面番所では、お尋ね者の出入り、右手の四郎兵衞会所では逃亡を企てる遊女に眼を光らせている。
区画内に住まうのは約3千人の遊女を筆頭に、妓楼関係者や商人、職人など約1万人だ。世帯数は739軒に上る遊女の階級は厳然としていた。
上級遊女は花魁と呼ばれる。当初最高位は「太夫(たゆう)」だったが、18世紀半ばに消滅し「呼び出し昼三(ちゅうさん)」がとってかわった。次が「平の昼三」で以下「振袖新造」、「禿(かむろ)」と続く。
上級遊女には、起居する自室と客を取る座敷を持つ「座敷持ち」、自室で客も接待する「部屋持ち」もある。禿は10歳前後の女児で、やがて新造になる。新造2、3人と禿が昼三の配下につき世話係も兼ねる。別に遊女上がりの「番頭新造」もいて雑用をこなしたが、こちらは基本的に客をとらない。
揚代は、1826年の『吉原細見』によると呼び出し昼三が新造を伴った場合で1両1分だ。新造がつかないと3分。平の昼三も3分で、昼三の名はここに由来している。
ただし、吉原では飲み食い代や芸者、幇間(ほうかん)代が別だし、皆への祝儀も必要だ。馴染みの遊女から帯やかんざしをねだられたら、出さざるをえない。格式のある妓楼には、まず引手茶屋に寄ってから登楼する習慣だし、とにかくお金がかかった。
『図説吉原入門』などの著作がある時代小説作家の永井義男氏が電卓を叩いてくれた。「大店に住み込み、食事つきの奉公人の最低賃金が年2両でした。呼び出し昼三と遊べば、一回で年収の半分以上が飛ぶことになります。直接の比較にはなりませんが――現在の寮住まいの新聞配達員の月給が15万円くらいですから、吉原の値段は約100万円ということになりますね」
ひと晩でこんな豪遊ができるとは羨ましいかぎり――昼三クラスと同衾するのは諸藩の留守居役、大店の旦那や地方の豪商に豪農、それと大名や旗本、富豪の道楽息子だ。このあたりの事情は江戸も東京も変わりないか。
※週刊ポスト2010年11月12日号