三國連太郎は1923年群馬県生まれ。1951年にデビュー後、数々の名作に出演。1987年に製作・監督した『親鸞 白い道』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。『釣りバカ日誌』シリーズで「スーさん」の愛称で親しまれる三國は、母について語るなかでこう述べている。
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私にとって「おふくろ」はただただ優しい女でした。伊豆半島の小浦という漁村で網元の娘として生まれたそうですが、船が沈没して零落してしまい、広島・呉の海軍軍人の家に女中奉公に出されたそうです。それである時、実家に帰ろうとして沼津でたまたま親父と出会い、私が生まれました。
親父は電気工事の職人でした。普段は女房にも子どもにも優しい親父でしたが、とにかく手が早くて、悪ガキだった私はしょっちゅう殴られていました。
とにかく殴られるのが嫌で、縁の下に隠れていたりすると、おふくろが親父には内緒で毛布やご飯などを持ってきてくれるんですね。おふくろが私をかばって代わりに殴られたこともしょっちゅうでした。それをおふくろはただ黙って耐える。明治生まれだからなんでしょうか。とにかくひたすら我慢していました。
私は勉強嫌いでしたが、ろくに学校に通えなかった親父の意向で下田にある豆陽中学という旧制中学校に進学させられました。
嫌々通わされていたため、中学2年の時に「学校は嫌だ、やめる」と私がいい出すと、親父は男泣きをしながら、殴る蹴るばかりでなく、そばにあった火箸で私の太ももを刺したり、商売道具のごついペンチで頭を殴ってきました。おふくろが髪を振り乱して絶叫するような……それはもう修羅場でしたね。
ただ、おふくろも耐えているだけじゃなく、ぜいたくな衣類をどんどん買い込んでは月末の支払いを親父にさせていたため、よく夫婦ゲンカになっていました。親父は女グセが悪く、愛人を囲ったりしていましたが、そういうこともあったんでしょうか。
そうしたなか、私はもう親父から逃げることしか考えられませんでした。中学を中退し、放浪人生の始まりです。東京などに出ては、警察に保護されて戻ったり、おふくろが迎えにきたりしていましたが、それでもまた家出を繰り返す日々でした。
※週刊ポスト2010年11月26日・12月3日号