【書評】『どつぼ超然』(町田康/毎日新聞社/1680円)
評者:鴻巣友季子
* * *
例えば、ドストエフスキーの『地下室の手記』は「ぼくは病んだ人間だ……意地の悪い人間だ」(江川卓訳)と始まる。本当の「ぼく」がどんな人かさておき、読者に伝えたいセルフイメージを最初に打ちだしているわけだ。
『どつぼ超然』も手記の体裁をとっているが、始まりはこうだ。「田宮に住みたいと思った。理由なんてない。(中略)自分は東京で飄然としていたかった。(中略)僕はもう一度、飄然とすべきなのではないだろうか」
まず、かくありたいというイメージがある。男は飄然者となることを目指して温泉地に移り住むが、ひょんなことから次は「超然者」というセルフイメージに支配され、一人称を「僕」から「余」に代えて新人格を獲得せんとする。ところがビーチである小娘の行動を見て、その超然ぶりに打ちのめされ、自殺を決意……。
内面の葛藤が縷縷(るる)描きだされるさまは、町田康の独壇場だ。ふざけた形をした公衆トイレの爆破を考え、燃える字体の「バーベキュー」の幟から地獄絵図のごとき焼き肉シーンを妄想し、犬連れですれちがった男に排撃の制裁を加える。とはいえ、外側から見た彼は、温泉地の浜を散歩し、島へ観光船で渡って定食を食し、ふれあい祭りに参加しているだけである。
男に制裁と言っても「ばーか、ばーか」と内心で罵倒するだけだからだ。これまた『地下室の手記』の書き手を彷彿。この男は撞球室で尊大な態度をとってきた軍人を何年も恨んだ挙げ句、すれちがいざまにわざとぶつかって「一歩も道を譲らない」という超地味な復讐に出るのだ。
外見の長閑さと裏腹に、「余」の精神は凄絶な闘いをへて生死の際を渡り、やがては「ただ、一さいは過ぎて行きます」という太宰治的な境地に至って、どつぼから再生へとむかう。町田文学通底する外面と内面の乖離というテーマをこれでもかというほど推し進め、恥ずかしさのあまり普通は直視しかねる人間の愚行を、町田康は今回も、無理やり太陽を直視するが如くに見据えるのであった。
※週刊ポスト2010年12月10日号