江戸時代、二つの女の園が華麗で妖艶な大輪を咲かせていた――片や吉原であり、一方は大奥だ。ただ大奥は、セックスを核としたテーマパークの様相を呈した吉原とは大きく異なる。
大奥は女の園であり、自由に行き来できた男は徳川将軍だけだった。しかし、大奥をハーレムと混同するのは的を射ていない。確かに見境なく大奥女中に手をつける将軍もいたが、むしろ大奥には権力や政治、利権の影が色濃く投影されている。
山本博文・東京大学史料編纂所教授は語る。「大奥は“女だけの役所”です。将軍に囲われた閉鎖的な世界ではなく、江戸のキャリアガールが自己実現を目指して働く憧れの職場でした」
山本教授は『大奥学』(新潮文庫)や『面白いほどわかる 大奥のすべて』(中経出版)などの著者だ。「家康の頃から大奥の原型はありましたが、そのシステムやモデルが構築されたのは2代将軍・秀忠の時代からです。さらに、3代家光の治世となって、大奥は飛躍的に拡大され隠然たる権力を持ち始めます」
秀忠の正室=御台所は、お江与といい“お江さま”の名で親しまれた。織田信長の妹お市の娘として生まれ、長姉の淀君は豊臣秀吉側室、次姉初が戦国武将の京極高次正室だ。ちなみにお江与は、来年のNHK大河ドラマの主人公でもある。
秀忠は6歳上のお江与に頭が上がらなかった。生涯で浮気はたった2度といわれるくらいで、側室をもっていない。2人は、家光となる竹千代や弟の国松ら7人の子をなした。
※週刊ポスト2010年12月24日号