江戸時代・将軍家の女の園「大奥」の内実は「一切他言無用」と厳しく秘密保持されていた。おまけに、これだけの規模と歴史を有する“役所”にもかかわらず、公式文書や議事録、関係者の回顧録、一級と認められる歴史書が驚くほど少ない。だが、それでも大奥の噂はひっきりなしに城下へ流れてきた。実際に大スキャンダルが起こったこともある。その代表例を紹介しよう。
人間の煩悩は色欲だけにとどまらない。ここに金や出世が絡みドロドロの醜聞絵巻を繰り広げたのが「智泉院・感応寺事件」だ。
『大奥学』(新潮文庫)や『面白いほどわかる 大奥のすべて』(中経出版)などの著者、東京大学史料編纂所の山本博文教授はいう。
「1841年に大御所家斉が逝去すると、それを待ちかねたように、老中水野忠邦は感応寺の取り潰しを命じます。同時に住職の日啓も女犯の罪で遠島を命じられました」
日啓は智泉院の元住持で、家斉が最も寵愛したお美代の方の実父だった。お美代の養父は御小納戸頭取の中野清武、2人の父は娘の美貌と才知を見込んで1806年に、彼女を大奥へ送り込んだ。
作戦は大成功した。というのも家斉は稀代の好色将軍だったからだ。彼は15歳で最高位に就き69歳で死んだが、なんと40人の側室に55人もの子を産ませた。しかも家斉は、12代家慶に家督を譲った後も大御所として実権を手放さなかった。
お美代の方は家斉の第36子で加賀藩に嫁いだ溶姫や広島藩主の正室となる末姫をなし、大奥での勢力を拡大していく。養父武清は2000石に加増され、日啓も並々ならぬ法力を持つと評判をとる。無論、娘のプロパガンダが功を奏したのだ。山本教授も眉をひそめる。
「日啓は30数年にわたって大奥の信仰を集め、複数の女中と密通していたようです。彼はそれだけで満足せず、お美代を通じて家斉に働きかけ、廃寺だった感応寺を復興させ住職に収まります」
感応寺は将軍家を筆頭に諸大名の絶大な信仰と喜捨を受け、大伽藍を誇った。大奥女中との女犯は日啓のみならず孫の日尚も倣っていたというから、あきれた破戒坊主どもだ。
※週刊ポスト2010年12月24日号