高等教育を受けずに首相まで上り詰め、「今太閤」として絶大な人気を誇った田中角栄。その交渉力についてジャーナリストの松田賢弥氏が解説する。
* * *
1973年、角栄は首相としてモスクワを訪れ、ソ連共産党中央委員会書記長・ブレジネフとの会談に臨んだ。席上では会談後に発表される日ソ共同声明の文言が検討されていた。その中に<第二次世界大戦の時からの未解決の諸問題>との言葉があった。
当時、外務省東欧第一課長として会談に同席していた新井弘一の著書などによれば、角栄は、「この<諸問題>に北方四島の返還問題は含まれるのか?」とブレジネフに舌鋒鋭く迫ったという。
領土問題の存在をソ連に認めさせようとしたのだ。
4本の指を突き立てた角栄に対し、ブレジネフは、「ヤー、ズナーユ(私は知っている)」と曖昧な答えで逃げを打つ。角栄はそこでたたみかけるように、「含まれるのか、含まれないのか。イエスかノーか?」と机を叩いて迫り、ブレジネフはついに「ダー(イエス、その通り)」と応じた。
相手が誰であろうが、言うべきことは言う。角栄が交渉で物怖じしなかったのは、背負っているものの「重さ」を感じていたからだろう。故郷・新潟をはじめ、貧しい生活、不遇に苛まれる国民たちの声なき声。角栄は政治家になる過程で、最も大切にすべきものは何かを、自身の肌で、体で、学んでいた。だからこそ退かなかった。退くことなどできなかったのだ。
※SAPIO2011年1月6日号