尖閣諸島や北方領土問題などで外交失策の続く民主党政権。SAPIOでは50人の識者に日本史上最強のタフネゴシエーターは誰か、アンケートを実施した。5位に選ばれたのは岸信介元首相。日米安保条約の改定という難題に取り組んだその交渉術を産経新聞ワシントン駐在編集特別委員の古森義久氏が分析する。
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日本の戦後史でも岸信介氏ほど苦境、逆境のなかで対外交渉をうまく達成した政治指導者は珍しい。
外交交渉の相手は単に外国ではなく、実は背後の自国の各種政治勢力なのだという場合も多い。岸氏はその点、背後から飛んだ反対の銃弾をも毅然かつ巧妙にかわし、対外交渉を着実に進めていった。まさにタフネゴシエーターの名に値しよう。
岸氏の対外交渉といえば当然、1960年(昭和35年)、日米安全保障条約の改定である。
岸氏は当時の総理大臣だった。岸首相の最初の交渉相手となった駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー二世に、私は1981年4月にインタビューしたことがある。
マッカーサー氏は語った。
「アメリカは1958年の当時、すでに対等性と相互性に基づく同盟のための安保条約を西欧諸国とも東南アジア諸国とも、韓国と台湾とも結んでいました。日本との条約が唯一、平等や相互の基本がなかったのです。
岸さんはこの点を説いて普通の安保条約に変えることを求めてきたのです。しかも私が当時のアイゼンハワー大統領ともダレス国務長官とも個人的に親しいことを知ったうえでの効果的な働きかけでした」
日本には憲法九条があり、アメリカとの軍事同盟でも普通の相互性は盛り込めなかったにせよ、新安保条約では米軍による日本防衛の責務や在日米軍の装備や運用上の大幅な変更への事前協議制をきちんと明記することとなった。
岸氏はこうした諸点をまずマッカーサー駐日大使を通じ、アメリカ政府としっかりと交渉していったのである。首相自身が先頭に立ってのタフな交渉だったのだ。
しかも岸首相のこの安保改定は日本国内で猛烈な反対にあった。ソ連と中国がその反対を最大限にあおっていた。安保反対のデモ隊に国会が包囲され、岸氏の私邸も包囲され、国内の一大危機と思われる状態にもなった。
だが岸首相は頑としてその反対を抑え、日米安保条約の改定を成しとげた。それ以後の50年間、日本は平和と繁栄を享受した。もし安保がその時代に破棄されていたら日本はどうなっただろう。
それを考えれば、岸信介氏の英断は証明されたといえよう。
※SAPIO2011年1月6日号