本物のタフネゴシエーターとはその交渉力によって世界を動かし、歴史を変えてきた人物のことだと、国際ジャーナリストの落合信彦氏は言う。キューバ危機において活躍したタフネゴシエーターについて落合氏が解説する。
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1962年10月、世界は人類滅亡の危機に瀕していた。 キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ軍のU‐2偵察機が、地上に配備されたソ連製の中距離ミサイルを確認した。ソ連が、アメリカの主要都市を射程に入れた核ミサイルを配備していたのだ。
「キューバ危機」である。アメリカ大統領はジョン・F・ケネディ。ソ連首相はニキータ・フルシチョフであった。
アメリカはキューバの周辺海域を海上封鎖、ソ連の軍的輸送を行なう船に対する臨検態勢を敷いた。そんな中、ミサイルを積んだとされるソ連船が封鎖海域に迫るその様子が刻々とテレビで中継され、核戦争勃発のカウントダウンが始まっていたのだ。
この時の米ソ間のネゴシエーションこそ、未曾有の危機から人類を救い、歴史を変えたものだったと言えよう。
ケネディとフルシチョフは、実は“似たような立場”にあった。キューバのミサイルの存在が明らかになり、ケネディは軍とCIAから「キューバを空爆すべし」と猛烈な圧力を掛けられていた(当時の空軍参謀総長はタカ派として有名なカーティス・ルメイだった)。一方のフルシチョフも、共産党政治局内の激烈な権力闘争の中にあり、弱気は見せられない状況にあった。
逃げ道をふさがれた2人のリーダーの“代理人”として直接向き合ったのが、ケネディの弟で、司法長官を務めていたロバート・“ボビー”・ケネディとソ連駐米大使のアナトリー・ドブルイニンだった。
2人はABCネットワークの記者ジョン・スカーリの仲介で危機の最中に密会をしている。場所は人目につかないように深夜のワシントン市内の公園に設定された。
ボビーはこの交渉に臨んだ時の決意を私に対して、「未来の子供たちのためにも、決裂させてはいけないと考えていた」と明かしている。究極的な状況に置かれた時のネゴシエーターは単なる近視眼的な国益だけに拘泥されないのだ。
この深夜の密会交渉で、重要なカギを握ったのはある「情報」だった。
密会からほんの少し前、ソ連で一人のCIAスパイが捕まっていた。ソ連陸軍参謀本部中央情報部(GRU)大佐でオレグ・ペンコフスキーという男だ。彼はソ連の中枢にいながら、西側に、ソ連の「核開発と核基地」の情報を詳細に伝えていた。つまり、ウラル山脈のどこに核ミサイルが配備されているか、キューバ危機発生時にホワイトハウスは把握していたのだ。
一方、この時ソ連側はペンコフスキーがどの程度の情報をアメリカに渡していたのかわかっていなかった。
場面を深夜の公園に戻す。ボビーはドブルイニンにこう言い放ったという。
「我々は先制攻撃によって、ソ連の核基地を徹底的に叩くことができる」ドブルイニンが虚勢を張ってこう言い返す。
「そんなことは我々もできる」そこで、ボビーは相手の耳元でこう一言囁いたのだ。「ペンコフスキー」
その瞬間、ドブルイニンは全てを悟ったのだろう。ペンコフスキーがどんな情報を流していたのかを。ボビーの回想によれば、深夜の薄暗い公園だったにもかかわらず、相手の顔から血の気が引いていくのがわかったという。
このやり取りはすぐにフルシチョフに報告され、キューバに配備されたミサイルは撤去された。交換条件としてケネディはトルコに配備されたジュピターミサイルを取り払うことと、キューバに決して侵攻せずの保証をフルシチョフに与えた。ジュピターは古くて対ソ戦略から既に外されていたし、キューバ侵攻はケネディがもともと、優先オプションとして考えていなかったので失ったものは何もない。
フルシチョフが、国内での批判に晒されて暴発するのを防ぐため、敢えて相手の顔を立てたのだ。さらにケネディは部下に対して、この対決でアメリカが勝利したなどとは、決して口にしてはならないとクギを刺した。ケネディの卓越したネゴシエーション能力と人間性が示されている。
※SAPIO2011年1月6日号