小学生の頃、熱心にプロレスを見ていた脳科学者の茂木健一郎氏は、ウェブで偶然、懐かしい男のドキュメンタリーに出会った。そこで茂木氏が考えたことは…。
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先日、ウェブでさまざまな動画を見ているうちに、偶然、プロレスラーのタイガー・ジェット・シンのドキュメンタリーを見つけた。カナダのテレビ局の番組。大邸宅の庭を、息子と一緒に走ってトレーニングしている場面や、家族で食事をしているところなど、興味深い映像がたくさんあった。
若い人は、タイガー・ジェット・シンと言ってもわからないかもしれない。ある年齢以上の世代の脳裏には強く焼き付いている。「インドの狂える虎」と言われたタイガー・ジェット・シン。頭にターバンを巻き、サーベルを振り回して相手に殴りかかる。その激しい闘いぶりに、胸が躍った。
アントニオ猪木を始めとする日本人選手との、数々の名勝負。何よりも魅せられたのは、いきなり「本題に入る」そのファイティング・スタイルだった。
小学校の私が熱心に見ていた頃のプロレスには、「段取り」のようなものがあった。試合前、選手がリングに立っている。そこに、和服美人が花束を持って現れ、選手に贈呈する。レフリーが試合のルールを説明する。それから、ゴングが鳴って、試合が始まる。
タイガー・ジェット・シンのファイティング・スタイルは、全く違っていた。会場に入ってきた時から、サーベルを持って暴れまくっている。いきなりのトップスピード。セコンドが止めても、若い選手たちが阻止しようとしても効果がない。あげくの果ては、観客にまで殴りかかり、追い回す。
リングに上がると、花束を蹴散らし、相手をロープの外に投げだして、「場外乱闘」に持ちこむ。観客が座っているパイプ椅子を持ち上げ、殴りかかる。選手が逃げると、追いかける。スポットライトが、追走劇を照らし出す。
「お気をつけください! お気をつけください!」―観客の興奮をあおるように、アナウンサーが場内放送をする。何がなんだか、もうわからない。そのハチャメチャな感じが、最高の「エンターテインメント」となっていた。
やがて、「よきところ」で、カーンとゴングが鳴る。何事もなかったかのように、「ただ今試合が始まりました」とアナウンス。それを聞く度に、子ども心に、何だかヘンな気がした。「それじゃあ、今までの乱暴狼藉は、すべて良かったのか? 反則負けではなかったのか?」と思ったものである。
※週刊ポスト2011年1月7日号