最近「アンチエイジング」がブームだが、作家・五木寛之氏(78)はその流行に否定的だ。氏は「アンチエイジング」ならぬ「グッドエイジング」を提唱する。
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社会も人間も老年期を迎えるものです。人は60歳を過ぎた頃になると、歯が抜け、髪の毛も抜け、視力も落ちて体の節々が痛むようになる。まるで人間という存在は、生まれながらにして罰を与えられているんじゃないか、と思いたくなる程に。しかしそうした晩年は、果たして悲しく、寂しいだけのものなのでしょうか。
老いというものを、社会の余り物として無残に生きていく姿としてとらえれば、確かにそうでしょう。ただ、その考え方はあまりに情けない。世界に溢れているのは日の昇る美しさだけではありません。夕陽の美しさにもまた、豊かな完熟期としての素晴らしさがあるのですから。国の歴史も同じです。日本はいま、老年期に達しようとしている。だからこそ、今後は高齢の豊かさを意識する時期に入っていかなければならない。それをしっかりと自覚できていないところに問題を感じますね。
歴史は登山に似て、必ず登りの時期と下りの時期があります。日本は戦後50年ほど登りが続き、頂上に10年程度留まりましたが、現在は下山の最中です。ではこのような時代に生きる私たちは、未来に対してどんな希望を持てるのか。一言でいえば「下山」の思想を構築すること、これに尽きます。下山は決して歴史の衰退期ではありません。むしろ下山には喜びと価値があり、それを積極的に知ろうとすることから私たちの希望は始まるのではないか。
かつての高度経済成長の時代、日本人は必死に山を登っていた。急坂を息急き切って、重い荷物を背負いながら、ただひたすら頂上を目指して歩き続けました。そんなときは頂上を極めること以外に、何かを突き詰めて考える余裕がありません。辺りを眺めるゆとりもなければ、友人と会話をしたり、自分たちの行く末を考えたりする気持ちも生まれてこない。対して下山では歩き方の姿勢や心構えの全てが登りとは異なります。足元をしっかりと見据え、滑らないように、転ばないようにと気を配る。その足元にふと可憐な花を見つけることもあれば、目を上げて周囲を見渡し、遠くに美しい景色を見ることもできる。
それにしても―と優雅に下山をする人なら思うのではないでしょうか。これまでに、自分はいったいいくつの山を越えてきたのか。この先、いくつの山を登るのだろうか、と。その静かな思索の中から、なぜ人は山に登るのか、人間とは何かといった哲学も生まれるかもしれません。
そうして次の登山に思いを馳せるとき、私たちはこのことを考えるために山を登ったのだ、という気持ちにさえなるものです。その意味で、下山とは非常に実りの多い成熟した行為だと言えます。下り坂を行く自らに落胆すること自体が間違っているのです。永久登山を目指し、経済的な成功ばかりを追い求めていては、息も絶え絶えになって精神的な豊かさが見えなくなるだけです。
例えば頂上に向かうことを唯一の価値とする視点から見れば、人口が減少し、高齢化が進む日本の現状は厳しく、貧しい社会に見えるでしょう。「アンチエイジング」といった言葉によく表れていますが、人々は頂上を見つめるあまり、本来なら否定できるはずのない老いさえも否定しようとしています。しかし老いを肯定し、そこに積極的な意味を見出す「グッドエイジング」の価値観を持たなければ、この社会に希望が現れるはずがないのです。
そのためにも下山の素晴らしさについて考える必要があります。すると高齢化は一転して、社会の成熟の原動力にもなっていくかもしれない。私たちに求められているのは、下山という成熟した季節を生きる自分たちの姿に、もっと自覚的になることなんですね。
※週刊ポスト2011年1月7日号