2月7日は「北方領土問題の日」とされているが、なぜ2月7日なのか。そこには日本とロシアの国境画定を成し遂げた川路聖謨(かわじ・としあきら)の偉業が深く関わってくる。対ロ交渉に詳しい作家の佐藤優氏が解説する。
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日本が開国した1850年代後半は、欧米諸国が本格的な植民地化に乗り出した時期だった。日本は東アジアで欧米列強の植民地にならなかった唯一の国だ。そこで果たした川路聖謨の役割がとても大きいと私は考える。
日本の開国については、米国とロシアが先陣争いをしていた。結局、1854年に日米和親条約が締結され、外交関係樹立は米国の方が先行した。 当時の日本にとって、より難しかったのは、ロシアとの関係をいかに構築するかだった。地理的に米国は太平洋をはさんだ反対側にある。
これに対して、ロシアはすでに樺太や千島列島にまで進出しているので、その脅威が文字通り日本のすぐそばに迫っていた。日米交渉は外交関係樹立に関する交渉をすればよかったが、日露関係については国境画定交渉を併せて行なう必要があった。この大任を見事に果たしたのが川路聖謨なのだ。
川路聖謨は、ロシア側全権のプチャーチン提督と人間的信頼関係を構築することに成功した。その上で、毅然たる交渉を行なった。
〈プチャーチンはこう切り出した。
「日本千島のうち、南は日本、北はわが国にて支配しております。右のうち、エトロフ島は昔からわが国の者が住まいしてきたのですが、その後貴国より手を入れ、貴国の人が住まいするようになりました。現在日本では、エトロフ島はどこの所領だと考えておりますか」
(中略)川路聖謨はすかさず答えた。
「蝦夷之千島は、のこらずわが国の属島でして、元来名前も蝦夷言葉でありましたのに、だんだん貴国より蚕食(さんしょく)し、名前もつけかえられた次第です。その後貴国のコロウーイン(引用者註*ゴロヴニン)という者が蝦夷地にやってきたさい、規定を立て、互いの国境を守り、ウルップを間島としたいと契約し、それ以来エトロフ島には外国の者を置かず、領主よりも番所を設置してきたのであって、もとよりわが所領であることはいささかも疑いありません」〉
※(和田春樹『開国日露国境交渉』NHKブックス、1991年、115~116頁)
川路聖謨によるタフネゴシエーションによって、日露の国境線は択捉島とウルップ島の間に引かれ、樺太は境界線を定めずに日本人とロシア人が共住することを定めた日露通好条約が1855年2月7日に締結された。
それだから現在2月7日が択捉島とウルップ島の間に日露間の国境が平和裏に決定されたことに因んだ「北方領土の日」になっているのだ。
※SAPIO2011年1月6日号