外交交渉の場ではハニートラップが仕掛けられることがあるなどとまことしやかに語られることがある。実際のところはどうなのか。外交交渉の第一線の現場を知る佐藤優氏が、疑問に答える。
* * *
外交交渉で、賄賂、酒や女性(ハニートラップ)などの罠が仕掛けられるのではないかという質問を時々受ける。しかし、これはまったくピントがずれた質問だ。このような小道具で交渉に影響を与えることは、よほど国家体制が整っていない弱小国を相手にする場合を除き、考えられない。
外交交渉にあたる政治家や職業外交官は、その国家の意思を体現している。
交渉者が脅されたり、買収されて締結した合意は、国家意思を体現したものではない。仮にこのような汚い手法で合意文書に署名したとしても、後でその国がこの合意文書を破棄することになるだけだ。しかも、「あの国は、交渉相手の外交官に汚い工作をかける」という悪評が立つと、国家としての信用が毀損される。まともな国家は自らのマイナスになるような行動をとらない。
筆者がこれまで見てきたところ、交渉に重要な道具が2つある。「語学力」と「サブスタンス」に関する知識だ。
サブスタンスとは交渉の実質的内容にかかわる事項を意味する業界用語だ。外務省ではサブと略語で呼ばれることが多い。サブスタンスと対になる言葉がロジスティックスでロジと略される。宿舎や交通手段の手配など交渉のために必要な周辺作業のことだ。ロジの中にはサブロジと呼ばれる特別の作業がある。要人とのアポイントの取り付けだ。
交渉で必要とされる外国語は、ただ意味が通じればよいという水準では役に立たない。日本政府の立場を正確に、当該国の知識人が用いる外国語で表現する能力が必要だ。同時に、相手が言うことを瞬時に正確に理解する反射神経が求められる。
例えば、ロシア人が「率直かつ実務的に話をしたい」と言えば、それはけんか腰になるという意味だ。 また、日本の国会議員で「私は日本のナショナリストです。あなたもロシアのナショナリストです。お互いに自国を愛するという気持ちを大切にしたい」と発言した場合、ロシア語に慣れていない通訳が、「ヤー・ナツィオナリスト(私はナツィオナリストです)」と訳すと意味が曲がって伝わってしまう。ロシア語のナツィオナリストは、英語のナショナリストではなく他民族を侮蔑し排除する排外主義者という意味だからだ。
この場合、国会議員の発言は「ヤー・パトリオート(私は愛国主義者です)」と訳すべきだ。ロシア語でパトリオートという言葉には否定的意味がないからだ。
※SAPIO2011年1月6日号