2010年秋、発足55周年を記念して、早稲田大学の漫画研究会のOBが世代を超えて集い、制作した『早稲田OB漫』。1000部限定で自費出版された同人誌にもかかわらず、表紙には豪華執筆陣の名が連なるなど、希代の「名門」として知られる。同研究会OBである弘兼憲史氏(1966年入学)と国友やすゆき氏(1971年入学)が、「オレたちの漫研時代」について語った。
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国友:弘兼さんの世代の漫研部員で、漫画家になった人はいますか。
弘兼:ひとつ年下に御厨さと美(『裂けた旅券』小学館刊)がいた。彼は天才御厨と呼ばれていて、入ってきたときに「うますぎる!」って4年生がみんな尻尾を巻いたんだ。それを本人もすごく自覚しているのが憎たらしかったなァ(笑い)。一応、学年が下だから御厨は敬語を使うんだけど。甲子園の大スターが入ってきた野球部みたいなもんだったね。彼くらいかな。
国友:俺の一学年下も凄かった。『ドラクエ』(スクウェアエニックス)の堀井雄二、『星を見に行く』(誠文堂新光社刊)のえびなみつる、コラムニストとして活躍中の山崎浩一は3人とも1972年入学組ですね。
弘兼:へえ。その下も結構、いるよね。
国友:はい。1974年に人気ゲーム『桃太郎電鉄』(ハドソン)の作画を手掛ける土居孝幸、1975年に井浦秀夫、76年にラズウェル細木、1977年がやく・みつる。さらに下には、1979年に『Theにがおショー』(角川書店刊)のカトリーヌあやこと『ホリイのズンズン調査』(週刊文春で連載中)の堀井憲一郎がいて、1980年から1983年にかけてはさそうあきら、安倍夜郎、けらえいこ、現代洋子が1年違いで続々ときた。今回『早稲田OB漫』を作ってみたら、アレもコレも早大漫研かよという感じ。
弘兼:他大学にも漫画研究会はあったし、明治なんかはプロになったOBも多い。かわぐちかいじは僕の同期に当たるし、『フロムK』(双葉社刊)のいしかわじゅん、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』(講談社刊)の片山まさゆき、それに直木賞作家の山田詠美も明治の漫研。当時は本名の山田双葉という名で描いていた。
※週刊ポスト2011年1月21日号