脳科学者の茂木健一郎氏が2010年を振り返る。茂木氏にとって2010年でもっとも印象に残った出来事は何だったのか。
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2010年を振り返ると、「激動」の年だったように感じる。必ずしも、大きな事件があったという意味ではない。これまでの私たちの世界についての認識を変えるような、さまざまな変化があったという意味においてである。
脳は、世界について考える時に、いくつかの暗黙の前提を持っている。2010年は、これまで数十年の間、当たり前だと思ってきたことがそうは見えなくなってきたという、重大な変化の潮目に当たったような気がする。革命は、外で起こったのではない。私たちの心の内面で起こり始めているのだ。
たとえば、「国家」というもののあり方の様々な側面。私が子どもの頃は、検察というものは無条件に「正義」であり、悪を暴くのだと信じていた。時代の推移の中でも、そのような前提は、多かれ少なかれ保たれてきた。ところが、今年起こった一連の出来事を通して、検察に対する信頼は地に堕ちた。極端な立場をとる人たちの間のことではない。ごく良識的な人たちの中でも、「検察の言っていることは、本当にそうなのか」という疑いが生まれてきたのだ。
変化への胎動は、鳩山由紀夫氏や小沢一郎氏にかかわる「疑惑」報道あたりから始まっていたのかもしれない。「政治と金」の問題は多くの議員について存在するはずなのに、なぜ、政権交代を果たしたばかりの党の二人の代表者に向けてだけ、その追及がなされるのか? どう常識に照らし合わせて考えてみても、間尺に合わないと感じられた。
検察に対する不信の目と同じような視線は、同時に、これまで警察や検察の発表をある意味では「そのまま垂れ流し」してきた、新聞やテレビといった伝統的なメディアに対しても向けられた。とりわけ、「記者クラブ」に象徴される閉鎖的な体質が、批判の対象になったのである。国家の正義を実現するはずの「検察」という組織、公益のために、報道を行なうはずのメディア。これらの、いわば「社会の秩序」を担う実体に対する信頼感が低下したことが、2010年の最大の出来事の一つだった。
権威が低下したのは、検察やメディアだけではない。毎年、その時期になると「合格者数高校別一覧」が報じられる東京大学。しかし、気付いてみれば、東京大学に入るのは、ほとんど日本人しかいない。だからこそ、「合格者数高校別一覧」というような記事ができる。「合格者数各国別一覧」というような記事が出たという話は、一向に聞かないのである。
東京大学をはじめとする日本の大学は、「ガラパゴス化」している。そのような認識が、急速に広がった年だった。日本の若者が、外国に出て行こうとしない。そのことが問題として認識された年でもあった。高校生が、アメリカなどの海外の大学に留学しようとしない。若者の意識が、すっかり内向きになってしまった。
※週刊ポスト2011年1月21日号