AFCアジアカップ2011の決勝戦で、日本を優勝に導くボレーシュートをオーストラリアゴールへ叩き込んだ李忠成選手(25)。在日韓国人4世として生まれた李選手は、サッカー選手として、小さいころから注目されていた。
中学時代はJFLのジュニアユースで活躍、高校にはいると同時にFC東京ユースに加入。さらに高校卒業後の2004年にはFC東京のトップチームに昇格し、Jリーガーとしてプロのサッカー選手に仲間入りした。そんな折に飛び込んできたのが、U-19 (19才以下)韓国代表候補合宿への招集だった。
李選手を追ったノンフィクション『忠成』(ゴマブックス)の著者でスポーツライターの加部究さんは、こう話す。
「在日からの招集は彼ひとりだったこともあり、忠成はチームに溶け込めませんでした。日本の朝鮮学校で習った言葉と現地語のギャップもあって、コミュニケーションがうまくとれなかった。1人で食事をしていると、離れた席のチームメートが自分の陰口をいっていると感じたこともあったそうです」
韓国人が在日韓国人に対して侮蔑的に使う『パンチョッパリ』という言葉を耳にしたこともあった。合宿中のプレー自体に自信はあったが、韓国代表には選ばれなかった。当時李は、
「おれは日本人でもなく、韓国人でもなく、在日なのか」
そんな言葉を両親に漏らしている。
大歓迎してくれると思っていた祖国で感じた疎外感。自らが在日であることを実感した李選手の気持ちは、これを機に日本への「帰化」へと傾いていった。あるサッカー関係者はこういう。
「祖国は韓国だけど、自分は日本で生まれて日本で育った。だから日本代表に挑戦したい、そう思うようになったようです」
※女性セブン2011年2月17日号