AFCアジアカップ決勝戦でゴールを決めたことで、一気に注目の的となった李忠成選手(25)。在日韓国人4世として生まれた李選手に対して、サッカー五輪日本代表候補入りを期待する声が持ち上がったのは、2005年に柏レイソルに移籍し、大活躍したときだった。
そして2006年9月、李選手は帰化申請を提出。サッカーのためとはいえ、国籍を変えるというあまりにも重い決断だった。周囲の在日の人たちや親戚からは猛反対を受けた。しかし両親は反対しなかった。サッカー関係者はこう証言する。
「母親の裕美さんは“あなたの思いを貫きなさい”といって力を与えてくれたそうです」
このとき、李選手がひとつだけこだわったことがあった。それは、帰化しても通名の「大山」ではなく「李」という名字を守ること。帰化直前には、韓国・大邱にある曽祖父の墓参りに行き、「李氏の姓は最後まで守る」と誓った。
母・裕美さんがいう。「“大山”を名乗るほうが、日本で生きるうえでは楽。だけど、忠成は“そうじゃいけないんじゃないか”と思っていたようです。私たちが“名前はそのままで本当にいいの?”と聞くと、“おれは大丈夫。日本と韓国の架け橋になりたいし、おれは強く生きられるから”と答えました」
2007年2月に日本国籍を取得した李選手は北京五輪を目指すU-22日本代表に選出された。
「日本代表に招集された直後は、プレーだけで認められようとして誰にも話しかけず孤立していたそうです。ほとんどパスが回ってこなかったことも。このときからチームメートだった本田圭佑選手とも、最初は意思疎通が上手くできていませんでした」(前出・サッカー関係者)
当時の意気込みを、彼は雑誌『Sportiva』(集英社)のインタビューでこう答えている。
<ぼくは、この帰化を成功させなくちゃならない。自分の運命に最後まで立ち向かわなくちゃならないんです>
そして、2007年11月の北京五輪最終予選ベトナム戦。これに負ければ五輪出場が絶望的という大事な試合に出場した李選手は、2ゴールを決めて、勝利に貢献。チームは見事予選を突破し、北京五輪への出場を果たしたのだった。
その後、2009年にはサンフレッチェ広島に移籍し、ゴールを量産。その活躍がザッケローニ監督の目にとまり、帰化した在日として初めて日本代表に選出された。そして決めたのが、日本を優勝に導くあのゴールだった。
※女性セブン2011年2月17日号