【書評】『グッドバイバタフライ』(森英恵著/文藝春秋/1890円)
評者:山内昌之(東大教授)
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書名の「グッドバイ バタフライ」は、モード界で定評のある『ヘラルド・トリビューン』紙の記事のタイトルである。それは、2004年7月の森英恵氏による最後のオートクチュール・コレクションを紹介した時に出された。
オートクチュールとは高級な仕立服であり、「私の生き方だった」と自負する手仕事でもある。いまでこそブランドビルが立ち並ぶ表参道で長くランドマークだったハナヱ・モリビルも解体され、オートクチュールにも別れを告げた森氏の美に賭けた人生と素描された回想から学ぶべきものは多い。
日本人が何故に西洋の洋服をつくるのかという欧米人の問いは、意地悪や偏見というよりも自然に出てくる疑問なのかもしれない。パイオニアとしてパリやニューヨークで活躍した森氏には人に語りつくせない苦労も多かったはずだが、この本のどこにも愚痴や不満めいた表現は見当たらない。むしろ成功者の誇りをもって、「何ごとも永遠でないように、移りゆく」と人生を述懐するあたりに氏の爽やかな自信と真骨頂が感じられる。
この回想録には多数の芸術家や業界人が登場する。なかでも、夫君の賢氏はいくら控えめに描いても圧倒的な存在感を発揮している。また、パリで森氏の作品を着たモデルの故松本弘子氏との仕事を超えた付き合いや深い友情には惚れ惚れとするほどだ。豊かな「手の表情」や、繊細かつ上質な日本の気品によって世界のトップマヌカンになった松本氏へのこまやかな哀惜の念は本書の圧巻である。人を傷つけず互いに負担をかけない二人の生き方にも感心する。
また、森氏が育った素晴らしい家庭環境は、家族や親子の絆を失った現代の日本人にはまぶしいほどだ。愛情をこめながら食事の作法などに厳格だった医師の父、娘のために季節の素敵な服を作ってくれた母の教えは、国際人デザイナーとして活躍する森氏の原点である。現代人が家族や友情について考えるよすがにもなる佳品といえよう。
※週刊ポスト2011年2月18日号