海外の著名な映画賞を多数受賞した映画監督の河瀬直美さん(41)は映画づくりに励む一方で、自身の育ての親である養母の介護という現実に直面してきた。1992年に映画監督としてデビューした河瀬さんは1997年に映画『萌の朱雀』がカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞し、同じ年に27才で結婚した。
しかし2年半で離婚。高齢の養母を慮って奈良市内に一戸建てを買って同居を始めた。
養母に異変が起こったのは2001年初めだった。急に怒りっぽく、何度も同じ話を繰り返すようになった。医師の診断を受けると「認知症のようです」と告げられた。河瀬さんはショックを受けたが、周りには介護をしている友人もおらず、誰にも相談できなかった。
「介護の終わりは養母の“死”だと考えることがすごくつらかった。物理的な面より精神面がきつかったですね」(河瀬さん)。発症当初から養母は夜間に家の中を歩き回ることがあった。転倒は命取りになりかねない。養母の行動から常に目が離せなくなった。
苦労と努力を重ねながら介護を続けていたが、2003年の夏に転機が訪れた。河瀬さんが交際相手の子供を妊娠したのだ。これを機に再婚し、養母の世話は仕事のスタッフや介護ヘルパーに任せ、東京で暮らすようになった。
しかし日ごとに、養母の病状は進行していた。置き忘れたりしまい忘れたりしたものを「盗まれた!」と思い込む“もの盗られ妄想”が強くなり、夜中に突然叫び出す。何度注意しても部屋の明かりやエアコンを消し忘れ、水道の蛇口をしめない。ささいな行動の積み重ねが妊娠中の河瀬さんには重くのしかかった。
「妊娠中はホルモンのバランスが崩れるので、養母が変なことをいいだすと、ものすごくストレスになりました。“いつか手をあげてしまうかも”と何度も思いました。
夜中にトイレ介助をしながら“このままずっと続くんじゃないだろうか”“もっとひどくなるのでは”と思いつめていきました。希望がないことがつらかった」(河瀬さん)
ある日、ゴミの分別方法を注意したことに口答えした養母に苛立ち、思わず手が出そうになった。すぐにその場を走り去り、衝動が収まるまで両腕を押さえてうずくまった。自分が許せなかった。
「介護疲れでイライラし、私のことを大事に育ててくれた養母を嫌いになる自分自身が許せなかった。“なんて悪い人間だろう”と自分を責めました」(河瀬さん)
2004 年春に河瀬さんは助産師立ち会いの下、養母に見守られながら長男を出産した。新しい生命が誕生し、河瀬さんに変化が訪れる。赤ちゃんの姿を見て、命は“順送り”に受け継がれていくものだと思うようになった。子育てをしながら、生活すべてを介護に捧げなくてもよいと思えるようになった。
※女性セブン2011年2月24日号